物理学実験の教授について
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)当て嵌《は》め
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)措置|如何《いかん》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)A′[#「A′」は縦中横]
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理化学の進歩が国運の発展に緊要であるという事は永い間一部の識者によって唱えられていたが、時機の熟せなかったため一向に世間には顧みられなかった。欧洲の大戦が爆発して以来は却って世間一般特に実業者の側で痛切にこの必要を感ずるようになったと見え、公私各種の理化学的研究所が続々設立されるようになった。それと同時に文部省でも特に中等教育における理化学教授に重きをおかれるようになって、単に教科書の講義を授くるのみならず、生徒自身に各種の実験を行わせる事になり、このために若干の補助費を支出する事になった。これは非常によい企てである。どうかこのせっかくの企てを出来るだけ有効に遂行したいものである。
自分は中等教育というものについては自分でこれを受けて来たという以外になんらの経験もないものであるが、ただ年来大学その他専門学校で物理実験を授けて来た狭い経験から割出して自分だけの希望を述べてみたいと思う。勿論我田引水的のところもあろうが、ただこれも一つ参考として教育者の方々に見て頂けば大幸である。
云うまでもなく、物理学で出逢う種々の方則等はある意味で非常に抽象的なものであって、吾人の眼前にある具体的な、ありのままの自然そのものに直接そっくり当て嵌《は》められるようなものはほとんどないとも云われる。「AがあればBが生ずる」というような簡単な言葉で云い表わしてある方則には、通例「ただAだけがあってその他の因子A′[#「A′」は縦中横]A″[#「A″」は縦中横]……等がないならば」という意味を含めてある。例えば「落体がある場所で九・八メートル/秒秒の加速度をもって垂直に落下する」というのでも、実は地球の重力のみ働き空気の抵抗や電気磁気などの作用がないとした場合の事である。しかるに実際物体を落す場合に完全な真空で完全に他の力を除外して実験する事はなかなか面倒である。実際重力加速度gを定めるにはこのような直接の方法によらず、却って間接に振子の週期と長さから定め、空気の抵抗の影響は必要に応じて理論から計算した補正で除去する事が出来るのである。天体の影響などは云うに足らぬし、普通の場合ならば電気や磁気の影響は小さいであろうが、しかしもし不注意にも鉄の振子を強い磁石の傍で振らせたり、あるいは軽い振子の場合に箱のガラスが荷電していたりしては決して正しい結果は得られるはずはない。箱の中でなく風のある部屋でむき出しの振子を振らせても同様である。それで一つの方則を実験しようというならば、その実験を支配し得る種々の原因要素を分解して、その内から特にその方則に指定した要素のみを抽出し、他のものを除くようにしなければ予定の結果を得る事は出来ない。少し極端な云い分ではあるが、物理学の方則というものは決して完全には実現し得られない抽象的事実の云い表わしであって、ただ条件を「方則の条件」に近くすればするほど、結果も漸近的にどこまでも「方則の結果」に近よるといった方が却って穏当かもしれない。
こういう事を全く考えずに、ただ物理学教科書のみによって物理学を学んでいれば事柄は至極簡単で、太平無事であるが、一《ひ》と度《たび》書物以外に踏みだして実験をするという事になり、始めてありのままの自然に面するとなると、誠に厄介な事になって来る。若干の柔道の型を覚えていても敵と組打をやるとなれば敵の方で型の通りになってくれないと一般、眼前の自然は教科書の自然のように注文通りになっていてくれぬから難儀である。
例えば早い話が教科書や試験問題には長さ一メートルの物差とか一グラムの分銅《ふんどう》とかいう言葉が心配げもなく使ってあるが、実際には決して精密に一メートルとか一グラムとかいう量に出逢う機会は皆無と云ってよい。ただ必要に応じて差しつかえのない程度まで単位の長さや重さに近いように作ったものに過ぎない。生徒に実験を授ける際に一度は必ずこういう点にも注意を喚起しなければならぬと思う。紙の尺度や竹の尺度などを比較させて見るもよかろうし、また十グラムの分銅二つと二十グラムの分銅一つとを置換して必ずしも同じでない事を示し、精密なる目的には尺度の各分劃、分銅の各個につき補正を要する事や、温度による尺度の補正などの事も、少なくもそういうものがあるくらいは、中学校でも授けておきたいと思う。少なくも精密の度というものは比較的のものである事をよく理解させるが肝要であると思う。
また「大きさ一様なる棒」とか「平面」とか「球面
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