理実験を授けるべき教員は、教える前に自分で十分にすべての実験を練習し、あらゆる場合に遭遇し、あらゆる困難を切り抜けて来なければならないかという疑問が起る。しかしこれは云うべくして行い難い注文であって、そのような人を求めた所でそれは無理な事である。相当な専門家でもすべての場合にぶっつかって少しもまごつかぬという人は甚だ稀であろう。しかしこの点は少しも心配することはないと思う。もともと実験の教授というものは、軍隊の教練や昔の漢学者の経書の講義などのように高圧的にするべきものではなく、教員はただ生徒の主動的経験を適当に指導し、あるいは生徒と共同して新しい経験をするような心算《つもり》ですべきものと思う。簡単な実験でも何遍も繰返すうちには四囲の状況は種々に変化するから、結果に多少の異同や齟齬《そご》を来すのは常の事である。このような場合における教員の措置|如何《いかん》は生徒の科学的精神の死活に関するような影響を有するものと思う。この場合に結果を都合のよいようにこじつけたり、あるいは有耶無耶《うやむや》のうちに葬ったり、あるいは予期以外の結果を故意に回避したりするような傾向があってはならぬ。却って意外な結果や現象に対しては十分な興味をもってまともに立向かい、判らぬ事は判らぬとして出来る限りの熱心と努力をもってその解決に勉めなければなるまい。これは一見生徒の前に自分の無知を表白するように見える。ことに中学程度の生徒には教員の全知全能を期待するような傾向があるとすれば、なおさら教員の立場は苦しい訳であろう。しかしそれはほんの一時の困難であろうと思われる。一通りの知識と熱心と忍耐と誠実があらば、そうそう解決のつかぬような困難の起る事は普通の場合には稀である。そのうちに生徒の方でも実験というものの性質がだんだん分って来ようし、教員の真価も自ずから明らかになろうと思う。そういう事を理解するだけでもその効能はなかなか大きいものであろう。これに反して誤った傾向に生徒を導くような事があっては生徒の科学的の研究心は蕾《つぼみ》のままで無惨にもぎ取られるような事になりはしないかと恐れるのである。
以上はただ一個の学究の私見で一つの理想に過ぎない。多数の学者ことに教育者の側から見れば不都合な点も多くあるかもしれないし、自分でも十分に意を尽さぬために誤解を生じはせぬかと思う点もあるが、ともかくも思うままを誌《しる》して大方の叱正《しっせい》を待つのである。
[#地から1字上げ](大正七年六月『理学界』)
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「理学界」
1918(大正7)年6月1日
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング