物理学圏外の物理的現象
寺田寅彦
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《》:ルビ
(例)黎明《れいめい》時代
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(例)多年|藤原《ふじわら》博士
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(例)[#地から3字上げ](昭和七年一月、理学界)
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物理学は元来自然界における物理的現象を取り扱う学問であるが、そうかと言って、あらゆる物理的現象がいつでも物理学者の研究の対象となるとは限らない。本来の意味では立派に物理的現象と見るべき現象でも、時代によって全く物理学の圏外に置かれたかのように見えることがありうるのである。
物理学というものはやはり一つの学問の体系であって、それが黎明《れいめい》時代から今日まで発達するにはやはりそれだけの歴史があったので、その歴史は絶対単義的な唯一の道をたどって来たと考えるよりは、むしろ多くの可能な道のうちの一つを通って来たものと考えられ、その実際通った道を決定したものはやはり偶然の事情であったとも考えられる。ちょうどそれはナポレオンが生まれたか生まれなかったかにより、世界の歴史は違った内容をもったであろうというのと必ずしも本質的の差別はないように思われる。もちろん物理学の場合には自然という客観的存在が厳然として控えているから、たとえ研究の道筋に若干偶然的な変化があっても、最後の収穫は結局同じであるべきだという説が一般には信用されるであろう。そうして人類の歴史との比較は全然不当としてしりぞけられるが普通であろうと想像される。しかしこれははたしてそうであるかどうか、よくよく熟考してみなければならないように私には思われる。第一に客観実在と称するものが物理学体系と独立に存在しうるかどうかが疑問である。また、物理学の系統は実験上の新発見と新概念の構成とによって本質的の進歩を遂げるのであるが、その発見や構成の時間的関係は必ずしも必然的唯一のものが実際に存在したとは考えられない。たとえばハミルトンがもっと長生きをしたとか、アインシュタインが病気したとか、欧州戦争がなかったとか、そんなような事情のために、物理学の体系が現在とはいくらかでもちがった形をとることは可能ではないか、少なくもこういう疑問を起こしてみることは必ずしも無益のわざではないように思われる。
しかしそれほど根本的な問題はしばらくおき、もう少し具体的な問題を取ってみると、各時代において物理学上の第一線の問題とみなされ、世界じゅうの学者が競って総攻撃をするような問題があり、そうしてその問題の対象物は時代から時代へと推移して行く。この推移の経路がはたして単義的なものであるかどうかという問題が提出されうるように思われる。これは少なくもある程度までは偶然的人間的な事情に支配されることは疑いないように思われる。たとえば電子波回折の実験がX光線回折の実験の行なわれたころにすでに行なわれたというような事も、それ自身において必ずしも不可能でなかったと思われるから、もしもそうであったとしたら、その後の物理学界の動きはよほど実際とは違ったものになったのではないかと想像されるのである。
それと同様に未来の物理学進歩の経路も必ずしも単義的にただ一筋の予定の道筋を通るであろうとは考えられない。将来なされうべきある二つの画期的な発見のどちらが先に行なわれるかは偶然的な事情によって左右されうるであろう。そういうわけであるから、今から十年後の物理学界を予想する事はいかなる大家にも困難であろう。いついかなる問題が勃興《ぼっこう》して、現在の第一線の問題に取って代わるかもしれない。現在世界じゅうの学者が争って研究しているような問題が、やがて行き詰まりになるであろうということは当然の事でもあり、また過去の歴史がことごとくこれを証明しているように思われる。そういう場合に、突然にどこからか現われて来て新生面を打開するような対象が、往々それまではほとんど物理学の圏外か、少なくも辺鄙《へんぴ》な片すみにあって存在を忘れられていたような場合であることもあえて珍しくはないのである。たとえば昔ある僧侶《そうりょ》の学者が顕微鏡下で花粉をのぞいている間に注意して研究した微粒子の運動が、後日物質素量説の実証的根拠として一時盛んに研究されるようになった。またスイスの山間の中学校の先生が粗末な験電器の漏電を測っていたことが、少なくも間接には近代電子的物質観への導火線となり、放射性物質の発見にも一つの衝動を与えたような形になった。現在先端的な問題の一つと考えらるる宇宙線の研究でも、実はこの昔の粗末な実験の後裔《こうえい》であるとも見られなくはないのである。また昔レーリー卿《きょう》が紅茶茶わんをガラス板の上ですべらせてみて、ガラスのよごれ
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