燭力の分布などを区別して考えなければならぬ。次には海水自身を区別してその塩分の多少、混濁物や浮遊生物の多少などによっての差を考えねばならない。また海面の静平であるか波立っているかによって如何なる相違があるかという事も考えねばなるまい。これだけの区別をしてもまだ問題は曖昧である。光線が海水中に進入して行く時にはその光力は光の色によってそれぞれ一定の規則によって吸収されだんだんに減じて行くが、どこまでという境界はないはずである。人間の眼に感ずる極限といっても判然たるものではない。また写真の種板に感ずるのも照射の時間によって色々になるものである。それで問題も物理的に明白な意味のあるものにするには、例えば海面における光度の百分一とか千分一に減ずる深さ幾何とかいう事にしなければならぬ。このように問題の分析が出来てしまえば、それから一つ一つの問題について別々に研究し、その結果を綜合して初めて実際の場合に応用が出来る訳である。もし問題の分析をせずに研究すればいつまでたっても要領を得ないで五里霧中に迷うような事になってしまう。甲の場合に試験した結果と乙の結果と全然|齟齬《そご》したりするのは畢竟《ひっきょう》このためである。これはあまりに明白な平凡な事ではあるが、全く新しい方面に物理学を応用しようとする場合には特に重要でありながら、往々閑却される事かと思われる。
 実際的の問題は往々意想外に複雑であるから、一通り以上に述べたような分析をしてその結果を綜合しても事実上そう思った通りにならぬ場合がある。そういう時に世人はよく理論と実際という常套語《じょうとうご》を持出して科学者の迂遠《うえん》を冷笑するのが例である。世俗人情に関した理論などはいざ知らず、物理学上の方則は事実を煎じつめて得たもので嘘のあるはずはない。もし上記のような場合があればそれは理論の適用を誤っているか、そうでなければ問題の分析が不充分なためである。もしこれらが完全で、しかも実際と合わぬような場合があれば、これは何か吾人の夢想しないような新しい事柄がその間に伏在している証拠であって、古来多くの発見などはこのようなところから生れて来たのである。
 複雑な実際問題を研究して先ずその真相を明らかにしようという場合には、先ずその大体を明らかにして枝葉を後にするのが肝要である。これも多くの人にとっては平凡な事であろうが、世人からは往々忘れられる事である。渾沌《こんとん》とした問題を処理する第一着手は先ず大きいところに眼を着けて要点を攫《つか》むにあるので、いわゆる第一次の近似である。しかし学者が第一次の近似を求めて真理の曙光を認めた時に、世人はただちに枝葉の問題を並べ立てて抗議を申込む。例えば天気予報などもある意味においてそうである。第一次の近似だけでもそのつもりで利用すれば非常に有益なものである。第二次第三次と進むには多大の努力と時日とを要する事は云うまでもない。これも学問を応用しようとする学者と、応用の結果を期待する世間とを離間する誤解の原因であろうと思う。
 眼前の小利害にのみ齷齪《あくせく》せず、真に殖産工業の発達を計り、世界の進歩に後れぬようにしようと志す人は、もう少し基礎的科学の研究を重んじ、またこれを応用しようという場合には、少し気を永くしてあまりに急な成効を期待しないようにしなければならぬと思われる。
 また物理学を修めて後各種の実務に従事する人は、物理学は単に机上の学問ではなくて、到る処に活用の途のある学問だという事を忘れず、新しい応用方面の開拓に尽力されたいものである。
[#地から1字上げ](大正二年三月『理学界』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「理学界」
   1913(大正2)年3月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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