物理学の応用について
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)問題に逢着《ほうちゃく》する。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)塩魚類|鰹節《かつおぶし》の乾燥
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(例)[#地から1字上げ](大正二年三月『理学界』)
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物理学は基礎科学の一つであるからその応用の広いのは怪しむに足らぬ。生命とか精神とかいうものを除いたいわゆる物質を取扱って何事かしようという時にはすぐに物理学的の問題に逢着《ほうちゃく》する。吾人《ごじん》が日常坐臥の間に行っている事でも細かに観察してみると、面白い物理学応用の実例はいくらでもある。ただそれらは習慣のためにほとんど常識的になっているので、それと気が付かないだけである。例えば台所における物理学の応用だけでも、一々列挙すれば一冊の書物が出来ようと思う。
純粋な科学の各種の方面でも物理学を応用しあるいは物理学の研究方法を転用する事が盛んになる。天文、気象、地質、海洋等に関する自然科学研究に物理学応用の発達して行くのはむしろ当然の事であろうが、普通の意味における物質とはよほど縁の遠い生理学や心理学にまでもだんだん応用が開けて行くようである。
工業における応用も事新しく述べるまでもない事である。ドイツの工業が著しい長足の進歩をしたのは、その基礎となるべき物理学、化学の研究に帰因するという事は識者の認めている所である。また医学の方でも物理的療法という言葉が出来て、その方の専門家もあるくらいである。また近年目ざましい進歩をしたいわゆる航空術などもやはり応用物理学の一つと云って差支えはあるまい。
以上に述べたとは少しく異なった殖産事業の方面においても、将来非常に有望な物理学応用の新区域があるように思われる。先ず農業の方面ではつとに農芸物理学という学科が出来ているくらいであるが、今後まだどれだけ発展するか予期し難いように見える。自分の知っている狭い範囲だけでも面白い問題が沢山《たくさん》ある。例えば穀物の研究でも少し詳細にするとすれば、米粒の堅さとか、比重とかを測定する必要が起る。また穀物の生長に及ぼす、光、熱、電気等の影響とか、土壌の物質的性質とかいう問題でも、一つとして物理学の応用を待たぬものはない。また農具の研究並びにその改良等も従来の型を離れて新しい発展をしようとするにはどうしても物理学、力学の応用に依《よ》る外はないように思われる。近年安藤農学士が植物の霜害に関する研究をされたが、これらも面白い物理的研究の一例であろう。
我邦《わがくに》の産業中で農業に劣らず重要な水産漁業の方面でも物理学的研究の必要はだんだんに増して来るようである。これには先ず海洋それ自身の研究の必要な事は勿論である。海洋に関する物理的事項の重《おも》なるものについては近頃出版した拙著『海の物理学』にその梗概《こうがい》を述べておいた。なお直接水産方面に関して、自分の知っているだけの僅少な例を挙げてみると、第一に漁具ことに網の研究である。各種の網糸の強弱弾性やその温度湿度によっての変化とか、網に付ける浮標の浮力、浸水の度やその耐圧度とか、あるいは網面に当る潮流の抵抗の研究とか、いずれも物理学、力学の応用によって解決せらるべき問題である。次に太陽や燈火の光が海中に入り込む程度は漁業上重要な問題であるが、これを要するに光学上の問題に帰着する。上層と下層における魚類の色を自然淘汰によって説明した動物学者があるが、その基礎とするところは海中における光の吸収の研究である。また海岸の森林が魚類に如何《いか》なる影響があるかという問題があるが、これもいわゆる魚視界と名づける光学上の問題が多少関係して来る。また塩魚類|鰹節《かつおぶし》の乾燥とか寒天の凍結とかいう製造方面の事柄にも物理学応用の範囲は意外に広大であるように見受けられる。近頃藤原理学士が乾燥に関する面白い物理学的の理論を出された。おそらくこの方面の先駆と見てよかろうと思う。
以上は自分の狭い知識の範囲内で僅少な実例を挙げたに過ぎないが、要するにこれらの産業方面でも意外な物理学応用の区域がある事は疑いのない事である。
今一般に実際上の問題に物理学を応用しようとする時に、第一着手としてしなければならぬ事は問題自身の分析的研究である。実際上に起る問題をちょっと見ると簡単なようでも通常非常に複雑なものである。同時に範囲の判然せぬ問題が多い。例えば光線が海中に入り込む深さは幾何《いくばく》かという問題が起ったとする。この問題に答える前に先ず問題から研究して掛からねばならない。第一光線には色々種類がある。太陽の光線なればその成分もほぼ明らかであるが、人工の燈光なればその光の色や
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