があったとすれば、その人は空想家か哲学者であって少なくも実験科学者ではない。実験科学は形而上学ではない。取扱うものは自然の経験的事実である。ある時代には物理学は事柄が如何に起るかという事を論ずるのみで、何故かという事は論じないという言葉が流行して、その真の意味が誤解された事があった。今日多くの物理学者に云わせれば、何故という言葉と如何にという詞も相去る事あまり遠くはないのである。如何にという事が分れば何故も分り、何故という事が明らかになればその結果は同時に「如何に」に対する答である。それで原子のみでは分らぬ現象が知られるに至って何故という問題が起り、その結果「如何にして」の答案が上述のごとき電子の出現となったのである。しかし科学者には没交渉であるはずの物の本性に立ち入ろうとする人間自然の欲求は更に電子は何かという疑問を発して止まぬのである。
 前世紀において電気は何物ぞ、物質かエネルギーかという問題が流行した。電気窃取罪の鑑定人として物理学者が法廷に立った事もある。二十世紀の今日においては電気の疑問が電子に移った。電子は連続的のものでなくて粒から成り立っている。一電子の有する電気以下の
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