物質とエネルギー
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)工合《ぐあい》が悪い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ガリレー以来|漸《ぜん》を追うて

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(例)[#地から1字上げ](大正四年頃)
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 物には必ず物理がある。ここにいわゆる物とは何ぞや、直接間接に人間五感の対象となって万人その存在を認めあるいは認め得べきものを指す。故に幽霊はここにいわゆる物ではない。夢中の宝玉も物ではない。物理学者は通例物質とエネルギーという二つの物を認める。物質の定義が困難である。教科書などには質量を有するものとも書いてあるがこれは言葉を換えたに過ぎない。質量という考えを明らかにするにはどうしても力という考えを固めなければ工合《ぐあい》が悪い。力という言葉の起原はつまり人間の筋力の感覚から発達して来たものに相違ない。そうしてこの考えを押し拡げて吾人《ごじん》の身辺を囲繞《いにょう》するあらゆる変化を因果をもって律しようという了見から何かその変化の原因となるものを考えたいので、この原因に力という語を転用するに至ったのであろう。普通に云う力学上の力はすなわちいわゆる機械的の力で直接または間接に吾人の筋力と比較さるべきものである。これがある物に作用した時にこれが有限な加速度をもって運動すれば、その物はすなわち物質で質量を具えていると云う。その質量の大小は同じ力の働いた時の加速度に比例すると考えるのである。否むしろかくのごとき方則に従って力に反応する物を物質と名づけるのである。こういう考えで自然界の運動を解釈して矛盾するところがないので、力の考えはいよいよ明らかとなり質量の考えもいよいよ確かになる。この考えを更に押し拡め直接筋力と比較する事の出来ぬ種々の引力斥力を考えて森羅万象《しんらばんしょう》を整然たる規律の下に整理するのが物理学の主な仕事の一つである。
 力の考えから仕事の考えが導かれる。力の作用せる物が動けば力はその物に対して仕事をし、また仕事を受ける。その仕事は力と距離の相乗積で計る。これが現在力学の中の重要な Begriff の一つである。これはしかし力のごとき人間感覚に直接の交渉を有せぬ量であって、自然現象を整理するに便宜な尺度の一つと考えなければなるまい。仕事の考えが定まればエネルギーの考えはこれから導かれる。すなわち仕事をなす能をエネルギーと名づける。ある現象が起ってその間に甲が乙に仕事をしたとすれば甲はエネルギーを有《も》っていたと考え、その一部または全体が仕事として費やされたと考える。仕事を受けた方はまたそれだけのエネルギーを受取ったと考えてよい。これもまた一つの便宜上の Begriff であって自然その物はこの Begriff の中には少しも含まれておらぬのである。かくのごとく定めた energy なるものがあらゆる変化に際して総和において変らぬというのがいわゆる勢力《エネルギー》不滅則である。
 仕事と云いエネルギーと云うのはどこまでも人間特に物理学者が便宜上採用した観念である。力という語や速度という語が世俗に通じやすくて仕事エネルギーの解しにくいのはそのためである。このような観念の結合連鎖によって組み立てた力学物理学は吾人にとって非常に便宜なものであるが、しかしまたこの建設物が唯一な必然なものだとは信じられない。現在と全く異なった一つの力学系統を構成する事は不可能ではあるまい。現在の系統は一朝一夕に発達したものではなく、ガリレー以来|漸《ぜん》を追うて発達して来たもので、種々な観念もだんだんに変遷し拡張されて来たものである。従って将来はまたどのような変化をし、またどのような新しい観念が採用されるようになるか、今日これを予言する事は困難である。
 光と名づけ音と名づける物はエネルギーの一つの形であると考えられる。これらは吾人の五官を刺戟して万人その存在を認める。しかし「光や音がエネルギーである」という言葉では本当の意味は尽されていない。昔ニュートンは光を高速度にて放出さるる物質の微粒子と考えた。後にはエーテルと称する仮想物質の弾性波と考えられ、マクスウェルに到ってはこれをエーテル中の電磁的|歪《ひず》みの波状|伝播《でんぱ》と考えられるに到った。その後アインスタイン一派は光の波状伝播を疑った。また現今の相対原理ではエーテルの存在を無意味にしてしまったようである。それで光と称する感覚は依然として存する間に光の本体に関しては今日に到るもなんらの確かな事は知られぬのである。それにも関らず光が一種のエネルギーであるという考えは
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