電子またはその集団の電場におかれると、力を受けて自由の状態にあれば有限な加速度をもって運動する。すなわち質量を有するのである。
しかるに一方において荷電体が動く時はその周囲の電場を引連れて動く。その時この電場の運動のためにいわゆる磁場が起る、電流の通ずる針金の周囲に磁場を生じるのはすなわちこれである。かくのごとくして起る電磁場は一種の惰性を有する事が実験上から知られる、すなわち荷電体を動かし始める時には動くまいとし、動いているのを止める時には運動を続けようとする、丁度物質質量と同様な性質を有しているのである。質量の定義に従えば荷電体従って電子はそれが電気を帯びているために一種の質量を有すると云わなければならぬ。従って上の物質の定義に従えば、電気はすなわち物質と云わなければならない。但しその質量の少なくも一部分はその周囲電磁場のエネルギーに帰因するものである。しからばエネルギーはすなわち物質か。こういう疑問が自《おの》ずから起らぬを得ないのである。吾人が通例取り扱っている物質の質量なるものはその物の速度|如何《いかん》によって変らない。しかるに荷電体の電磁的質量は速度よって変るものである。今電子の質量が純粋な電磁的のものかあるいは一部分は速度に無関係なものであるかという問題を決するには、速度種々に異なる電子が電磁場でその径路を変える模様を見れば分るはずであるので、カウフマン以後種々の人が精密な実験を行うたその結果は電子の質量はほとんど全部電磁的のものであるらしい。そうなると勢い吾人が従来物質の質量と考えているものも、やはり同様にことごとく電磁的なものでないかという疑いを起さざるを得ない。もしそうであらばエネルギーと物質とは打して一丸となり、物質すなわちエネルギーとなる訳である。しかしこの疑問はまだなかなか解決がつかぬ。陰電子とともに物質を構成しておりしかも物質質量の大部分をなしている陽電子なるものの性質本体がまだ分らぬうちは前途なお遠しと云わなければなるまい。
物理学の根原は実験的の事実で、その基となるものは人間の五感である。しかし物理学の進歩するほどその基となる五感は閑却されて来るのである。昔の物理学では五感の立場から全く別物として取扱ったものがだんだん一緒になって来る。電波や熱や光やX線やγ線や、人間を離れて見れば全く同じ物で波の長さという事の外には本質的の差異を認めない。六十余種の原素もおそらくはただ陰陽電子の異なる排列に過ぎぬと考えられる。いよいよ進んで物質とエネルギーは一元に帰しようとする傾向さえ生じている。従来不可解の疑問たる万有引力なるものもまた光との間になんらかの連鎖をほのめかしているのである。
物理の理の字は正にかくのごとき総括を意味するとも云える。直接五感に触れる万象をことごとく偶然と考えないとすれば、経験が蓄積するにつれて概括抽象が行われ箇々の方則を生じ、これらの方則が蓄積すれば更に一段上層の概括が起る。そうなればもはや人間というものは宇宙の片隅に忘れられてしまって、少数の観念と方則が独り幅を利かすようになって来るのである。しかもこの大系統は結局人間の産物であって人間現在の知識の範囲内にのみ行わるるものである。ポアンカレーは「方則は不変なりや」という奇問を発している。[#地から1字上げ](大正四年頃)
底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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