チて始めて良いものができるという事は、前に言った「発句は読者を共同作者とする」という事と密接につながっていることはもちろんである。俳句を理解するかしないかということは結局、その句の脇《わき》の世界を持ち合わせているかいないかによるのである。
共同作者らの唱和応答の間に、消極的には謙譲礼節があり、積極的には相互扶助の美徳が現われないと、一句一句の興味はあっても一巻の妙趣は失われる。この事を考慮に加えずして連俳を評し味わうことは不可能である。真正面から受ける「有心」の付け句がだいじであれば軽い「会釈」や「にげ句」はさらに必要である。前者は初心にできても、後者は老巧なものでなければできない重い役割であろう。
鑑賞の対象として見た連俳のおもしろみの一つは一巻の中に現われたその時代世相の反映である。蕉門の付け合いには「時宜」ということを尊んだらしい。その当時の環境に自然な流行の姿をえらんだ句の点綴《てんてつ》さるることを望んだのである。また作者自身の境界にない句を戒められたようである。しかしこういうことがないまでも、連句は時代の空気を呼吸する種々な作者の種々な世界の複合体である以上、その作物の上には個人の作品よりもずっと濃厚な時代の影の映るのは当然のことである。そういう意味から言って現代の俳諧に元禄時代《げんろくじだい》のような句ばかり作ろうとするのは愚かなことであろう。
連句の変化を豊富にし、抑揚を自在にし、序破急の構成を可能ならしむるために神祇《じんぎ》釈教恋無常が適当に配布される。そうして「雑《ぞう》の句」が季題の句と同等もしくは以上に活躍する。季題の句が弦楽器であれば、雑の句はいろいろの管楽器ないし打楽器のようなものである。連俳を交響楽たらしむるのは実に雑の句の活動によるのである。その中でも古来最も重要なものとされているのは恋の句であり、これがなければ一巻をなさぬとされている。
芭蕉の俳諧に現われた恋の句については小宮豊隆《こみやとよたか》君が本講座において周到な研究を発表されている。その説にもあるように俳諧に現われている恋は濃艶《のうえん》痛切であってもその底にあるものは恋のあわれであり、さびしおりである。すなわち恋の風雅であり、風雅の一相としての恋愛であり性欲である。恋の中に浸りながら恋を静観しうる心の余裕があるものでなければ俳諧の恋の句を作る事はできない。実際芭蕉は人間|禽獣《きんじゅう》はもちろん山川草木あらゆる存在に熱烈な恋をしかけ、恋をしかけられた人である。芭蕉の句の中で単に景物を詠じたような句でありながら非常になまなましい官能的な実感のある句があるのは人の知るところであろう。これは彼の万象に対する感情が恋情に類したものであった事を物語るであろうと思われる。しかし彼は恋の本情を認識して恋の風雅を味わうために頭を丸め、一つ家の遊女と袂《たもと》を別った。これと比較するとたとえば蕪村《ぶそん》は自然に対するエロチシズムをもっていない。画家であった彼の目には万象が恋の相手であるよりはより多く絵画の題材であるか、あるいは彼の詩の資料のように見えた。また一茶《いっさ》には森羅万象《しんらばんしょう》が不運薄幸なる彼の同情者|慰藉者《いしゃしゃ》であるように見えたのであろうと想像される。
小宮君も注意したように恋の句、ことに下品《げぼん》の恋の句に一面|滑稽味《こっけいみ》を帯びているのがある。これは芭蕉前後を通じて俳諧道に見らるる特異の現象であろう。これも恋を静観し客観する時に自然にそうなるのであって、滑稽であると同時にあわれであるのである。連俳の中の恋の句にはほとんど川柳と紙一重の区別も認め難いものがあり、また川柳の上乗なるものには、やはりあわれがあり風雅があることは争われない。しかし川柳の下等なものになると、表面上は機微な客観的真実の認識と描写があるようでも、句の背後からそれを剔出《てきしゅつ》して誇張し見せびらかす作者の主観が濃厚に浮かび上がって見えるのをいかんともし難い、これは風雅の誠のせめ方が足りないで途中で止まっているためである。もう一歩突きつめればすべての滑稽はあわれであり、さびであり、しおりでなければならない。
ここでわれわれは俳諧という言葉の起原に関する古人の論議を思い起こす。誹諧《はいかい》また俳諧は滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》の意味だと言われていても、その滑稽が何物であるかがなかなかわかりにくい。古今集の誹諧哥《はいかいか》が何ゆえに誹諧であるか、誹諧の連歌が正常の連歌とどう違うか。格式に拘泥《こうでい》しない自由な行き方の誹諧であるのか、機知|頓才《とんさい》を弄《ろう》するのが滑稽であるのか、あるいは有心無心の無心がそうであるのか、なかなか容易には捕捉し難いように見える。しかしもし大胆なる想像を許さるれば、古《いにしえ》の連歌俳諧に遊んだ人々には、誹諧の声だけは聞こえていてもその正体はつかめなかった。さればこそ誹諧は栗《くり》の本《もと》を迷い出て談林の林をさまよい帰するところを知らなかった。芭蕉も貞徳《ていとく》の涎《よだれ》をなむるにあきたらず一度はこの林に分け入ってこのなぞの正体を捜して歩いた。そうして枯れ枝から古池へと自然のふところに物の本情をもとめた結果、不易なる真の本体は潜在的なるものであってこれを表現すべき唯一のものは流行する象徴による暗示の芸術であるということを悟ったかのように見える。かくして得られた人間世界の本体はあわれであると同時に滑稽であった。この哀れとおかしみとはもはや物象に対する自我の主観の感情ではなくて、認識された物の本情の風姿であり容貌《ようぼう》である。換言すれば事物に投射された潜在的国民思想の影像である。思うにかのチェホフやチャプリンの泣き笑いといえどもこの点ではおそらく同様であろう。このようにして和歌の優美幽玄も誹諧《はいかい》の滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》も一つの真実の中に合流してそこに始めて誹諧の真義が明らかにされたのではないかと思われる。
芭蕉がいかにしてここに到着したか。もちろん天稟《てんぴん》の素質もあったに相違ないが、また一方数奇の体験による試練の効によることは疑いもない事である。殿上に桐火桶《きりびおけ》を撫《ぶ》し簾《すだれ》を隔てて世俗に対したのでは俳人芭蕉は大成されなかったに相違ない。連歌と俳諧の分水嶺《ぶんすいれい》に立った宗祇《そうぎ》がまた行脚《あんぎゃ》の人であったことも意味の深い事実である。芭蕉の行脚の掟《おきて》はそっくりそのままに人生行路の掟である。僧|心敬《しんぎょう》が「ただ数奇と道心と閑人との三のみ大切の好士なるべくや」と言ったというが、芭蕉の数奇をきわめた体験と誠をせめる忠実な求道心と物にすがらずして取り入れる余裕ある自由の心とはまさしくこの三つのものを具備した点で心敬の理想を如実に実現したものである。世情を究め物情に徹せずしていたずらに十七字をもてあそんでも芭蕉の域に達するのは困難であろう。発句はどうにかできても連句は到底できないであろう。
芭蕉が「誹諧は万葉の心なり」と言ったという、真偽は別として、偽らざる心の誠という点でも、また数奇の体験から自然に生まれた詩であるという点でもまさにそのとおりである。しかしたしか太田水穂《おおたみずほ》氏も言われたように、万葉時代には物と我れとが分化し対立していなかった。この分化が起こった後に来る必然の結果は、他人の目で物を見る常套主義《じょうとうしゅぎ》の弊風である。その一つの現象としては古典の玩弄《がんろう》、言語の遊戯がある。芭蕉はもう一ぺん万葉の心に帰って赤裸で自然に対面し、恋をしかけた。そうして、自然と抱合し自然に没入した後に、再び自然を離れて静観し認識するだけの心の自由をもっていた。
芭蕉去って後の俳諧は狭隘《きょうあい》な個性の反撥力《はんぱつりょく》によって四散した。洒落風《しゃれふう》[#「洒落風」は底本では「酒落風」]浮世風などというのさえできた。天明|蕪村《ぶそん》の時代に一度は燃え上がった余燼《よじん》も到底|元禄《げんろく》の光炎に比すべくはなかった。芭蕉の完璧《かんぺき》の半面だけが光ってすぐ消えた。天保より明治子規に至るいわゆる月並み宗匠流の俳諧は最も低級なる川柳よりもさらに常套的《じょうとうてき》であり無風雅であり不真実であり、俳諧の生命とする潜在的なるにおいや響きは影を消した。最も顕在的に卑近なモラールやなぞなぞだけになってしまった。これを打破するには明治の子規一門の写生主義による自然への復帰が必要であった。客将漱石は西洋文学と漢詩の素養に立脚して新しきレトリックの天地を俳句に求めんとした。子規は手段に熱中していまだ目的に達しないうちに早世した。そうして手段としての写生の強調がそのままに目的であるごとく思われて、だれも芭蕉の根本義を研究することすらしなかった。ひとり漱石は蕪村の草径を通って晩年に近づくに従って芭蕉の大道に入った。その修善寺《しゅぜんじ》における数吟のごときは芭蕉の不易の精神に現代の流行の姿を盛ったものと思われる。
現時の俳壇については多くを知らないのであるが、ともかくも滔々《とうとう》として天下をおぼらすジャーナリズムの波間に遊泳することなしにはいわゆる俳壇は成立し難いように見える。一派の将は同時に一つの雑誌の経営者でなければならない。風雅の誠をせめる閑日月に乏しいのは誠にやむを得ない次第である。既得の領土に安住を求むるか、センセーションを求めて奇を弄《ろう》するかに迷わざるを得ないのである。
一方では俳諧を無用の閑文字と考える風がますます盛んである。俳諧は日本文学の最も堕落したものだと生徒に教える先生もあったそうである。これほど誤った考えがあるであろうか。俳諧風雅の道は日本文化を貫ぬく民族的潜在意識発露の一相である。その精神は閑人遊民の遊戯の間ばかりではなくて、あらゆる階段あらゆる職業の実際的積極的な活動の間にも一つの重大な指導原理として働いて来たものであると思われる。おもしろい事には仏人ルネ・モーブラン(〔Rene' Maublanc〕)がその著 〔Hai:kai:〕 において仏人のいわゆるハイカイを集輯《しゅうしゅう》したものの序文に、自分が何ゆえにこれを企てたかの理由を説明している言葉の中に、一般人士大衆の間にこの短詩形を広めることによって趣味の向上と洗練を促しすぐれた詩人の輩出を刺激するような雰囲気《ふんいき》を作るであろうという意味のことを言っている。フランス人にとってはおそらくそれ以上の意義はないであろうが、日本人にとっては俳諧が栄えるか栄えないかはもっと重大の意義をもつであろう。俳諧の滅ぶる日が来ればその時に始めて日本人は完全なヤンキー王国の住民となるであろう。俳諧の理解ある嘆美者クーシュー(Paul−Louis Couchoud)はアメリカ文化と日本文化の対蹠的《たいせきてき》なことを指摘し自分らフランス人はむしろ後者を選ぶべきではないかと言っている。また思う、赤露のマルキシズムには一滴の俳諧もない。俳諧の滅びるまではおそらく日本が完全に赤化する日は来ないであろう。
あすの俳諧はどうなるであろうか。写生の行き詰まったあげくに元禄《げんろく》に帰ろうとするは自然の勢いであろうが、芭蕉の根本精神にまで立ちもどらなければ新しき展開は望まれないであろう。芭蕉は万葉から元禄までのあらゆる固有文化を消化し総合して、そうして蒸留された国民思想のエッセンスを森羅万象《しんらばんしょう》に映写した映像の中に「物の本情」を認めたのである。われわれはその上に元禄以降大正昭和に至るまでのあらゆる所得を充分に吸収消化した上でもう一ぺん始めから出直さなければならないであろう。神儒仏老荘の思想を背景とした芭蕉の業績を、その上に西欧文化の強き影響を受けた現代日本人がそのままに模倣するのは無意義である。風雅の道も進化しなければならない。「きのうの我れに飽きる人」の取るべき向上の一路に進まなければならな
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