nもないのであるが、要するにこれは俳諧には限らずあらゆるわが国の表現芸術に共通な指導原理であって、芸と学との間に分水嶺《ぶんすいれい》を画するものである。最も卑近な言葉をもって言い現わせば、恒久なる時空の世界をその具体的なる一断面を捕えて表現せよ、ということである。本体を表現するに現象をもってせよ、潜在的なる容器に顕在的なる物象を盛れというのである。本情といい風情《ふぜい》というもまた同じことである。これはおそらくひとわたりの教えとしては修辞学の初歩においても説かれうることであろうが、それを実際にわが物として体得するためには芭蕉一代の粉骨の修業を要したのである。
流行の姿を備えるためには少なくも時と空間いずれか、あるいは両方の決定が必要である。季題の設定はこの必要に応ずるものである。季題のない発句はまれにはあるとしてもそれは除外例である。二条良基《にじょうよしもと》は連歌の句々の推移のありさまを浮世の盛衰にたとえ、また四季の運行に比べている。これは気候変化の諸相のきわめて複雑多様な日本の国土にあって、この変化に対する敏感性を養われて来た日本人にのみ言われる言葉である。それで連歌以来季
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