轤ク、近来わが国諸学者の研究もあるように、七五の音数律はわが国語の性質と必然的に結びついたもので人為的な理屈の勝手にはならないものである。この基礎的な科学的事実を無視した奇形の俳句は、放逸であっても自由ではない。俳諧の流るるごとき自由はむしろその二千年来の惰性と運動量をもつところの詩形自身の響きの中にのみ可能である。俳諧は謡《うた》いものなりというはこの事である。一知半解の西洋人が芭蕉をオーレリアスやエピクテータスにたとえたりする誤謬《ごびゅう》の出発点の一つはここにもある。同じ誤謬に立脚した変態の俳句などは、自分の皮膚の黄色いことを忘れた日本人のむだな訓練によってゆがめられた心にのみ感興を呼び起こすであろう。
 この短詩形の中にはいかなるものが盛られるか。それはもちろん風雅の心をもって臨んだ七情万景であり、乾坤《けんこん》の変であるが、しかもそれは不易にして流行のただ中を得たものであり、虚実の境に出入し逍遙《しょうよう》するものであろうとするのが蕉門正風のねらいどころである。
 不易流行や虚実の弁については古往今来諸家によって説き尽くされたことであって、今ここに敷衍《ふえん》すべき余
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