(Paul−Louis Couchoud)はアメリカ文化と日本文化の対蹠的《たいせきてき》なことを指摘し自分らフランス人はむしろ後者を選ぶべきではないかと言っている。また思う、赤露のマルキシズムには一滴の俳諧もない。俳諧の滅びるまではおそらく日本が完全に赤化する日は来ないであろう。
あすの俳諧はどうなるであろうか。写生の行き詰まったあげくに元禄《げんろく》に帰ろうとするは自然の勢いであろうが、芭蕉の根本精神にまで立ちもどらなければ新しき展開は望まれないであろう。芭蕉は万葉から元禄までのあらゆる固有文化を消化し総合して、そうして蒸留された国民思想のエッセンスを森羅万象《しんらばんしょう》に映写した映像の中に「物の本情」を認めたのである。われわれはその上に元禄以降大正昭和に至るまでのあらゆる所得を充分に吸収消化した上でもう一ぺん始めから出直さなければならないであろう。神儒仏老荘の思想を背景とした芭蕉の業績を、その上に西欧文化の強き影響を受けた現代日本人がそのままに模倣するのは無意義である。風雅の道も進化しなければならない。「きのうの我れに飽きる人」の取るべき向上の一路に進まなければならな
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