m蕉は純日本人であったのである。
 こういう意味において、俳諧の本質を説くことは、日本の詩全体の本質を説くことであり、やがてはまた日本人の宗教と哲学をも説くことになるであろう。しかしそれは容易のわざではない。ここではただそういう意識を心頭に置き、そうしてその上に立って蕉門俳諧そのものの本質に関する若干の管見を述べるよりほかに現在の自分の取るべき道はないのである。

 俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。風雅という文字の文献的起原は何であろうとも、日本古来のいわゆる風雅の精神の根本的要素は、心の拘束されない自由な状態であると思われる。思無邪《おもいよこしまなし》であり、浩然《こうぜん》の気であり、涅槃《ねはん》であり天国である。忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。「風雅の誠をせめよ」というは、私《わたくし》を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたものとも見られるのである。この点で風雅の精神は一面においては
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