烽フであった。後に俳諧から分岐した雑俳の枝頭には川柳が芽を吹いた。
 連歌から俳諧への流路には幾多の複雑な曲折があったようである。優雅と滑稽《こっけい》、貴族的なものと平民的なものとの不規則に週期的な消長角逐があった。それが貞門《ていもん》談林《だんりん》を経て芭蕉《ばしょう》という一つの大きな淵《ふち》に合流し融合した観がある。この合流点を通った後に俳諧は再び四方に分散していくつもの別々の細流に分かれたようにも思われる。
 一方において記紀万葉以来の詩に現われた民族的国民的に固有な人世観世界観の変遷を追跡して行くと、無垢《むく》な原始的な祖先日本人の思想が外来の宗教や哲学の影響を受けて漸々に変わって行く様子がうかがわれるのであるが、この方面から見ても蕉門俳諧の完成期における作品の中には神儒仏はもちろん、老荘に至るまでのあらゆる思想がことごとく融合して一団となっているように見える。そうして、儒家は儒になずみ仏徒は仏にこだわっている間に、門外の俳人たちはこれらのどれにもすがりつかないでしかもあらゆるものを取り込み消化してそのエッセンスを固有日本人の財産にしてしまったように見える。すなわち
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