B実際芭蕉は人間|禽獣《きんじゅう》はもちろん山川草木あらゆる存在に熱烈な恋をしかけ、恋をしかけられた人である。芭蕉の句の中で単に景物を詠じたような句でありながら非常になまなましい官能的な実感のある句があるのは人の知るところであろう。これは彼の万象に対する感情が恋情に類したものであった事を物語るであろうと思われる。しかし彼は恋の本情を認識して恋の風雅を味わうために頭を丸め、一つ家の遊女と袂《たもと》を別った。これと比較するとたとえば蕪村《ぶそん》は自然に対するエロチシズムをもっていない。画家であった彼の目には万象が恋の相手であるよりはより多く絵画の題材であるか、あるいは彼の詩の資料のように見えた。また一茶《いっさ》には森羅万象《しんらばんしょう》が不運薄幸なる彼の同情者|慰藉者《いしゃしゃ》であるように見えたのであろうと想像される。
小宮君も注意したように恋の句、ことに下品《げぼん》の恋の句に一面|滑稽味《こっけいみ》を帯びているのがある。これは芭蕉前後を通じて俳諧道に見らるる特異の現象であろう。これも恋を静観し客観する時に自然にそうなるのであって、滑稽であると同時にあわれであるのである。連俳の中の恋の句にはほとんど川柳と紙一重の区別も認め難いものがあり、また川柳の上乗なるものには、やはりあわれがあり風雅があることは争われない。しかし川柳の下等なものになると、表面上は機微な客観的真実の認識と描写があるようでも、句の背後からそれを剔出《てきしゅつ》して誇張し見せびらかす作者の主観が濃厚に浮かび上がって見えるのをいかんともし難い、これは風雅の誠のせめ方が足りないで途中で止まっているためである。もう一歩突きつめればすべての滑稽はあわれであり、さびであり、しおりでなければならない。
ここでわれわれは俳諧という言葉の起原に関する古人の論議を思い起こす。誹諧《はいかい》また俳諧は滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》の意味だと言われていても、その滑稽が何物であるかがなかなかわかりにくい。古今集の誹諧哥《はいかいか》が何ゆえに誹諧であるか、誹諧の連歌が正常の連歌とどう違うか。格式に拘泥《こうでい》しない自由な行き方の誹諧であるのか、機知|頓才《とんさい》を弄《ろう》するのが滑稽であるのか、あるいは有心無心の無心がそうであるのか、なかなか容易には捕捉し難いように見える。しかしもし大
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