意味での「象徴」なのである。
こういう不思議な魔術がなかったとしたら俳句という十七字詩は畢竟《ひっきょう》ある無理解な西洋人の言ったようにそれぞれ一つの絵の題目のようなものになってしまう。
この魔術がどうして可能になったか、その理由はだいたい二つに分けて考えることができる。一つはすでに述べたとおり、日本人の自然観の特異性によるのである。ひと口に言えば自然の風物にわれわれの主観的生活を化合させ吸着《アドソーブ》させて自然と人間との化合物ないし膠質物《こうしつぶつ》を作るという可能性である。これがなかったらこの魔術は無効である。しかしこれだけの理由ではまだ不十分である。もう一つの重大な理由と思われるのは日本古来の短い定型詩の存在とその流行によってこの上述の魔術に対するわれわれの感受性が養われて来たことである。換言すればわれわれが、長い修業によって「象徴国の国語」に習熟して来たせいである。
ステファン・マラルメは仏国の抒情詩《じょじょうし》をおぼらす「雄弁」を排斥した。彼は散文では現わされないものだけを詩の素材とすべきだと考えた。そうして「ホーマーのおかげで詩は横道に迷い込んでしまった
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