万葉の歌に現われた「大海」の水はまた爾来《じらい》千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。
もちろん西洋にも荒海とほぼ同義の言葉はある。またその言葉が多数の西洋人にいろいろの連想を呼び出す力をもっていることも事実である。しかしそれらの連想はおそらく多くは現実的功利的のものであろう。またもしそれが夢幻的空想的であるとしても、日本人のそれのように濃厚に圧縮されたそうして全国民に共通で固有な民族的記憶でいろどられたものではおそらくあり得ないであろうと思われる。
「佐渡《さど》」でも「天の川」でも同様である。いったいに俳句の季題と名づけられたあらゆる言葉がそうである。「春雨」「秋風」というような言葉は、日本人にとっては決して単なる気象学上の術語ではなくて、それぞれ莫大《ばくだい》な空間と時間との間に広がる無限の事象とそれにつながる人間の肉体ならびに精神の活動の種々相を極度に圧縮し、煎《せん》じ詰めたエッセンスである。またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文《じゅもん》の役目をつとめるものである。そういう
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