遂行するわけではないが、しかしそういう選択の能力は俳句の修業によって次第に熟達することのできる一種不思議な批判と認識の能力である。こういう能力の獲得が一人の人間の精神的所得として、そう安直な無価値なものであろうとは思われないのである。
 一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。
 こういうふうに考えて来ると、俳句というものの修業が、決して花がるたやマージャンのごとき遊戯ではなくてより重大な精神的意義をもつものであるということがおぼろげながらもわかって来る。それと同時に作句ということが決してそう生やさしい仕事ではないことが想像されるであろうと思われる。
 俳句の修業はまた一面においては日本人固有の民族的精神の習得である。本編の初めに述べたように俳句という特異な詩形の内容と形式の中に日本
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