ている。俳人のほうを聞いてみると自殺者はきわめてまれだという。もちろんこれは僅少《きんしょう》な材料についての統計であるから、一般に適用される事かどうかはわからないが、上述のごとき和歌と俳句との自己に対する関係の相違を考え合わしてみるとおもしろい事実であろうかと思われる。いかなる悲痛な境遇でもそれを客観した瞬間にはもはや自分の悲しみではない。
 歌人と俳人とではあるいは先天的に体質、従ってそれによって支配される精神的素質がちがっているのではないかという想像さえ起こし得られる。近ごろ流行の言葉を使えば、体内各種のホルモンの分泌のバランスいかんが俳人と歌人とを決定するのではないかという気もする。これはしかるべき生理学者の研究題目になりうるのではないかと思われる。
 それはいずれにしても、上述のごとき俳句における作者の自己の特殊な立場は必然の結果として俳句に内省的自己批評的あるいは哲学的なにおいを付加する。「風流」といい「さび」というのも畢竟《ひっきょう》は自己を反省し批評することによってのみ獲得し得られる「心の自由」があって、はじめて達し得られる境地であろうと思われる。
 風流とかさびとか
前へ 次へ
全24ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング