位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍《かたわら》からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。
 短歌と俳句との精神というかあるいは態度というか、とにかくその内容に対する作者自己の関係の両者における相違をしいて求めてみると、その相違が主として上記の点に係わっているように思われる。このような差別の起こった一つの原因は、俳句の詩形が極度に短くなったために、もし直接な主観を盛ろうとすると、そのために象徴的な景物の入れ場がなくなってしまうので、そのほうを割愛して象徴的なものに席を譲るようになり、従って作者の人間は象徴の中に押し込まれ自然と有機的に結合した姿で表現されるよりほかにしかたがなくなる。その結果として諷詠者《ふうえいしゃ》としての作者は、むしろ読者と同水準に立って、その象徴の中に含まれた作者自身を高所からながめるような形になる。
 この事と連関してちょっとおもしろい話がある。私の知っているある歌人の話ではその知人の歌人中で自殺した人の数がかなり大きな百分率を示し
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