が決して偶然でないことは次の所説から理解されようかと思う。
 ジュール・ロマンという人が、フランス人の作ったいわゆるハイカイを批評した言葉の中におおよそ次のような意味の苦言がある。「俳句の価値はすべての固定形の詩の場合と同様に詩形の固定していること、形式を規定する制約の厳重なことに存している。かつて仏国にソンネット詩形を取り入れたとき、多少この詩形の規則をはずれたようなものを作ったものもあって、いかもの扱いにされたことであったが、それでもその規則はずれの自由さはほんのわずかの程度のものであった。しかるにフランスのハイカイはなるほど三つの詩句でできているというだけは日本のに習っているが、一句の長さにはなんの制限もないし、三句の終わりの語呂《ごろ》の関係にも頓着《とんちゃく》しない。それでは言わば多少気のきいたノート・ド・カルネー(手帳の覚え書き)ぐらいにはなるかもしれないが、しかし日本俳句の力強さも、振動性も拡張性もない」というのである。外国人の所説としてはおもしろいと思われる。
 実際短い詩に定型がなかったら「手帳の覚え書き」との区別はつきにくい。しかし「古池に蛙《かわず》が飛び込んで
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