化学成分の過剰あるいは欠乏といったようなものに相当する環境の変化のために特にある時代において急激に促進されるであろうということはむしろ当然のことと思われる。
現代俳句の新型式を生んだ原因となるものは多様であろう。拙劣な譬喩《ひゆ》をかりて言えば外国のいろいろな詩形から放散する「輻射線《ふくしゃせん》」の刺激もあるであろうし、マルキシズムの注入によって周囲の媒質の「酸度」に変更を生じたためもあろうし、また一般文化の進歩のために思想の内容が豊富複雑になったために一種の「滲透圧《しんとうあつ》」が増大して伝統詩形の外膜を押し広げようとする力が働いたためもあるかもしれない。
とにかく、こういうふうに考えて来ると現在のいろいろさまざまな新型式の中にはあるいは将来の新種として固定し存続する資格をもったものがあるかもしれないし、またその中の多くは自然淘汰《しぜんとうた》で一代限りに死滅すべき運命をもっているかもしれない。しかし、現在のわれわれの知識でこれらの中のどれが永存しどれが死滅すべきかを予測することはなかなか容易なことではない。むしろ冷静な観察者となって自然の選択淘汰の手さばきを熟視するほかはないようにも思われるのである。
しかし、ここで一つ問題が起こる。それは、こういう変異の各相の中に未来の好適種の可能性が存するとすれば、われわれはむしろこの際できる限りの型式のヴェリエーションを尽くして選良候補者のストックを豊富にして、それらを生存競争の闘技場に送り込むのも時宜に適するものではないか、ということである。
いかにオリジナルな変異の産物でも当代の多数の観賞者が見てちっともおもしろくなかったり、ひとり合点で意味のわからないようなものは、わざわざ勦絶《そうぜつ》に骨を折らなくても当代の環境で栄えるはずはないであろう。全く死滅しないまでも山椒魚《さんしょううお》か鴨《かも》の嘴《はし》のような珍奇な存在としてかすかな生存をつづけるに過ぎないであろう。そのかわりまた、ちょっと見ると変なようでも読んでいるうちにだんだんおもしろくなって来るようなものがあれば、だれがなんと批評しようが自然に賛美者の数を増してくるであろう。それで、志のある人はなんの遠慮もなく、ありとあらゆる新型式をくふうして淘汰のアレナに投げ出すほうがいいわけであろうと思われる。
こういうふうに考えて来ると、ある
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