破片
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駒込《こまごめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)甘納豆製造業|渡辺忠吾《わたなべちゅうご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#4分の1、1−9−19]
−−
一
昭和九年八月三日の朝、駒込《こまごめ》三の三四九、甘納豆製造業|渡辺忠吾《わたなべちゅうご》氏(二七)が巣鴨《すがも》警察署衛生係へ出頭し「十日ほど前から晴天の日は約二千、曇天でも約五百匹くらいの蜜蜂《みつばち》が甘納豆製造工場に来襲して困る」と訴え出たという記事が四日の夕刊に出ていた。
これがどの程度に稀有《けう》な現象だか自分には判断できないが、聞くのは初めてである。
今年の天候異常で七月中晴天が少なかったために、何か特殊な、蜜蜂の採蜜資料になるべき花のできが悪かったか、あるいは開花がおくれたといったような理由があるのではないかとも想像される。
近ごろ見た書物に、蜜蜂が花野の中で、つぼみと、咲いた花とを識別するのは、彼らにものの形状を弁別する能力のあるためだということが書いてあった。すなわち星形や十字形のものと、円形のものとを見分けることができるというのである。
しかし甘納豆の場合にはこの物の形が蜂を誘うたとは思われない。何か嗅覚類似《きゅうかくるいじ》の感官にでもよるのか、それとも、偶然工場に舞い込んだ一匹が思いもかけぬ甘納豆の鉱山をなめ知っておおぜいの仲間に知らせたのか、自分には判断の手掛かりがない。
それはとにかく、現代日本の新聞の社会面記事として、こういうのは珍しい科学的な特種《とくだね》である。たとえ半分がうそだとしてもいつもの型に入った人殺しや自殺の記事よりも比較のできないほど有益な知識の片影と貴重な暗示の衝動とを読者に与える。
この蜜蜂《みつばち》の話は人間社会の経済問題にも実にいろいろな痛切な問題を投げるようである。それよりも今さし当たって自分はなんとなく北米や南米における日本移民排斥問題を思い出させられる。
南半球の納豆屋さんには日本から飛んで来る蜜蜂が恐ろしいのである。
二
庭と中庭との隔ての四《よ》つ目《め》垣《がき》
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング