い。
九
東京市電気局の争議で電車が一時は全部止まるかと思ったら、臨時従業員の手でどうにか運転を続けていた。この予期しなかった出来事は、見方によっては、東京市民一般に関するいろいろな根本問題を研究するために必要あるいは有益な資料を提供する一つの大がかりなエキスペリメントであったとも見られなくはない。すなわち、実証的科学の実験と同じ意味において一つの実験であったと考えることができるとすれば、われわれはこの大規模で高価な実験をむだに終わらせないように努力しなければならない。それには、この実験によって生じたいろいろの効果を正確に観察し、それを忠実に記録し、そうしてその結果を分析し帰納し、それから、もしできるなら、市民交通を支配する方則のようなものを抽出し、それから演繹《えんえき》される各種の命題を将来の市電経営法の改善に応用したいように思う。
市電争議の原因はなかなか複雑で到底科学者などにはわからないような事がらがいろいろ裏面に伏在しているには相違ないであろうが、しかしたくさんな原因の一つとしては、市電が経済的に不利な経営法を行ないきたったという事実もあるであろう、そうしてそのまた理由の一つとしては電車の運転のスケジュールが科学的研究にその基礎を置いてない間に合わせなものだということもあげられはしないかと想像されるのである。
それはとにかく、争議中の電車に乗って往来している間に自分の気づいた現象の一つは、各線路における各時刻の乗客数の異常である。少なくも争議開始後二三日は全線いったいに乗客が少ないではないかと思われた。これは市民の出足がなんとない不安のためにいくぶん止められたためかと想像された。しかしまた、乗り換え切符を出さなくなったために乗客の選ぶコースが平常と変わり、その結果としていつもは混雑するある時刻のある線路が異常に閑散になったというような現象もあるらしく思われた。この異常時の各線路の乗客数の調査をしたら市電将来の経営について非常にいい参考資料が得られるであろうと思ったが、しかし電気局ではその当時それどころの騒ぎではなかったであろう。
背広服の運転手や車掌はなんとなく電車内の空気をなごやかにする。いつもは生きた機械か、別世界から出張した人間のように思われるこれらの従業員が、こうして見るとやはり乗客の自分らと同じ人種に見えるから妙である。
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