こういう全く分り切った事を、自分で始めて発見したように思って独りで喜ぶのが彼の癖である。またそういう事が何故に年賀状有用論の根拠になるかは、おそらく彼自身の外には分らないであろう。
彼は時としてまたひどく感傷的な事をいう。「年賀はがきの宛名を一つ一つ書いてゆく間に、自分の過去の歴史がまるで絵巻物のように眼前に展《の》べられる。もっとも懐かしいのは郷里の故旧の名前が呼びだす幼き日の追憶である。そういう懐かしい名前が年々に一つ減り二つ減って行くのがさびしい。」
こういって感に堪えないように締りのない眉をあげさげする。
「年賀はがきの一束は、自分というものの全生涯の一つの切断面を示すものである。人間対人間の関係というものがいかに複雑多様なものであるかを示す模型のようなものである。人情と義理と利害をXYZの座標とする空間に描きだされた複雑極まりない曲面の集合の一つの切り口が見える。これをじっと眺めていると、面白くもあれば恐ろしくもある。」
何かというとすぐに「XYZの座標」を持ちだすのが彼の一つの癖である。これさえ持出せば科学者でない多数の人々を無条件に感心させる事が出来るとでも思って
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