かくのごとく我儘であるくせにまた甚だしく臆病な彼は、自分で断然年賀端書を廃して悠然|炬燵《こたつ》にあたりながら彼の好む愚書濫読に耽《ふけ》るだけの勇気もないので、表面だけは大人しく人並に毎年この年中行事を遂行して来た。早く手廻しをすればよいのに、元日になってから慌《あわ》てて書き始める、そうして肩を痛くし胃を悪くして溜息をしているのが、傍《はた》から見ると全く変った道楽としか思われないのであった。
ところが、不思議なことに数年前から彼鵜照君の年賀状観が少なからず動揺を始めた。何を感じたかこの頃ではしきりに年賀状の効能と有難味《ありがたみ》を論じるようになった。今までとはまるで反対の説を述べて平気でいられるところが彼の彼らしいところを表現していて妙である。
どうも彼のいう事には順序というものがないから簡単に要領を捕捉するのが困難であるが、まあ例えばこういう事をいう。
「空間の中にn個の点がある。そのおのおのの点から平均m本の線を引いて他のm個の点に結ぶ。そうすると合計nかけるのm本の線が空間に複雑なる網を織りだす。仮にnが一千万、mが百とすると十億本の線が空間に入乱れる。これらの
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