年賀状
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鵜照《うてる》君
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)友人|鵜照《うてる》君
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(例)[#地から1字上げ](昭和四年一月『東京朝日新聞』)
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友人|鵜照《うてる》君、明けて五十二歳、職業は科学的小説家、持病は胃潰瘍《いかいよう》である。
彼は子供の時分から「新年」というものに対する恐怖に似たあるものを懐《いだ》いていた。新年になると着なれぬ硬直な羽織はかまを着せられて親類縁者を歴訪させられ、そして彼には全く意味の分らない祝詞《しゅくし》の文句をくり返し暗誦させられた事も一つの原因であるらしい。そして飲みたくない酒を嘗《な》めさせられ、食いたくない雑煮《ぞうに》や数の子を無理強《むりじ》いに食わせられる事に対する恐怖の念をだんだんに蓄積して来たものであるらしい。
それでも彼が二十六の歳に学校を卒業してどうやら一人前になってから、始めて活版刷の年賀|端書《はがき》というものを印刷させた時は、彼相応の幼稚な虚栄心に多少満足のさざなみを立てたそうである。しかし間もなくそれが常習的年中行事となると、今度はそれが大きな苦労の種となった。わがままで不精な彼にとって年賀状というものが年の瀬に横たわる一大暗礁のごとく呪わしきものに思われて来たのだそうである。
「同じ文句を印刷したものを相互に交換するのであるから、結局始めから交換しないでも同じ事である。ただ相違のある点は国民何千万人が総計延べ時間何億時間を消費し、そうして政府に何千万円の郵税を献納するか、しないかである。」
こんな好い加減の目の子勘定を並べてありふれの年賀状全廃説を称えていたが、本当はそういう国家社会の問題はどうでもよいので、実際はただせっかくの書きいれ時の冬の休みをこれがために奪われるのが彼の我儘《わがまま》に何より苦痛であったのである。
字を書くことの上手な人はこういう機会に存分に筆を揮《ふる》って、自分の筆端からほとばしり出る曲折自在な線の美に陶酔する事もあろうが、彼のごとき生来の悪筆ではそれだけの代償はないから、全然お勤めの機械的労働であると思われる上に、自分の悪筆に対する嫌忌の情を多量に買い込まされるのである。この点はいくらか同情してもよい。
かくのごとく我儘であるくせにまた甚だしく臆病な彼は、自分で断然年賀端書を廃して悠然|炬燵《こたつ》にあたりながら彼の好む愚書濫読に耽《ふけ》るだけの勇気もないので、表面だけは大人しく人並に毎年この年中行事を遂行して来た。早く手廻しをすればよいのに、元日になってから慌《あわ》てて書き始める、そうして肩を痛くし胃を悪くして溜息をしているのが、傍《はた》から見ると全く変った道楽としか思われないのであった。
ところが、不思議なことに数年前から彼鵜照君の年賀状観が少なからず動揺を始めた。何を感じたかこの頃ではしきりに年賀状の効能と有難味《ありがたみ》を論じるようになった。今までとはまるで反対の説を述べて平気でいられるところが彼の彼らしいところを表現していて妙である。
どうも彼のいう事には順序というものがないから簡単に要領を捕捉するのが困難であるが、まあ例えばこういう事をいう。
「空間の中にn個の点がある。そのおのおのの点から平均m本の線を引いて他のm個の点に結ぶ。そうすると合計nかけるのm本の線が空間に複雑なる網を織りだす。仮にnが一千万、mが百とすると十億本の線が空間に入乱れる。これらの線が一度はどこかの郵便局へ束になって集められ、そこで選《よ》り分けられて、幾筋かの鉄道線路に流れ込み、それが途中で次々に分派して国の隅々まで拡がってゆく。中には遠く大洋を越えて西洋の光の都、南洋のヤシの葉蔭に運ばれる。その数々の線の一つずつには、線の両端に居る人間の過去現在未来の喜怒哀楽、義理人情の電流が脈々と流れている。何と驚くべき空間網ではないか。」
そういえば、それはそうであるが、何故にそれがそれほど有難いかはわれわれにはよくは分らない。これはたぶん横浜岸壁あたりで訣別の色テープの束の美しさを見て来てから考えたものらしい。
「自分の知人A、B、Cの三人が同じ市の同じ町に住まっている事を、年賀状をより分けてみて始めて気がつく。しかしA、B、C相互になんらの交渉もない赤の他人である。それが遠い所にある自分という一点を通じて空間的に互いに連結されている。そうして見るとAから流れだす電流の一部は廻り廻ってBやCをも通過するかもしれない。これを推し広めて考えると、結局少なくも日本国中のおのおのの人間は全国民のおのおのと切っても切っても切り尽せないほどの糸でつながり合っている訳である。」
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