く発達させるか、どちらかによる外はない。
 精神的交通機関についてもやはり同様で、皆無か具足か、どちらかを選ぶことにしなければ面倒は絶えない。
 教育にしても子供から青年までの教育機関はあっても中年、老年の教育機関が一向にととのっていない。しかし、人間二十五、六歳まで教育を受ければそれで十分だという理窟はどこにもない。死ぬまで受けられる限りの教育を受けてこそ、この世に生れて来た甲斐があるのではないかと思われる。現在ある限りの学校を卒業したところで、それで一人前になれるはずがない。
 中年学校、老年学校を設置して中年、老年の生徒を収容し、その教授、助教授には最も現代的な模範的ボーイやガールを任命するのも一案である。
 子供を教育するばかりが親の義務でなくて、子供に教育されることもまた親の義務かもしれないのである。
 新しい交通機関、例えば地下鉄や高架線が開通すると、誰よりも先に乗ってみないと気のすまないという人がある。つい近ごろ、上野公園西郷銅像の踏んばった脚の下あたりの地下に停車場が出来て、そこから成田行、千葉行の電車が出るようになった。その開通式の日にわざわざ乗りに行った人の話である。千住大橋《せんじゅおおはし》まで行って降りてはみたが、道端の古物市場の外に見るものはないので、すぐに「転向」してまた上野行に乗込み、さて車内の乗客を見渡すと、先刻行きに同乗した見覚えの顔がいくつも見つかったそうである。多分みんな狐につままれたような顔をしていたことと想像される。
 地味な科学者の中でさえも「新しいもの好き」がある。新しいもの好きが新しい長所を取るべきは当り前であるが、いわゆる「新し好き」は無批判無評価にただその新しさだけに飛びつくのである。新しい電車に飛び乗ってうれしくなってしばらく進行していると「三河島《みかわしま》の屋根の上」に出る。幻滅を感じて狐につままれた顔をして引返してくる場合もあるであろう。しかしアインシュタインは古い昔のガリレーをほじくって相対性原理を掘りだし、ブローイーは塵に埋もれたハミルトンにはたきと磨きをかけて波動力学を作りあげた。
 時々西洋へ出かけて目新しい機械や材料を仕入れて来ては田舎学者の前でしたり顔にひけらかすようなえらい学者でノーベル賞をもらった人はまだ聞かないようである。
 そうはいうものの新しいものにはやはり誘惑がある。ある暖かい日曜に自分もとうとう京成《けいせい》電車上野駅地下道の入口を潜った。おなじみの西郷銅像と彰義隊の碑も現に自分の頭の上何十尺の土層の頂上にあると思うと妙な気がする。
 市中の地下鉄と違って線路が無暗《むやみ》に彎曲《わんきょく》しているようである。この「上野の山の腹わた」を通り抜けると、ぱっと世界が明るくなる。山のどん底から山の下の平野の空へ向って鉄路が上向きに登っているから、恰度《ちょうど》大砲の中から打出されたような心持がして面白い。打出されたところは昔|呉竹《くれたけ》の根岸《ねぎし》の里今は煤《すす》だらけの東北本線の中空である。
 高架線路から見おろした三河島は不思議な世界である。東京にこんなところがあったかと思うような別天地である。日本中にも世界中にもこれに似たところはないであろう。慰めのない「民家の沙漠」である。
 泥水をたたえた長方形の池を囲んで、そうしてその池の上にさしかけて建てた家がある。その池の上の廊下を子供が二、三人ばたばた駆け歩いているのが見えた。不思議な家である。
 千住大橋でおりて水天宮《すいてんぐう》行の市電に乗った。乗客の人種が自分のいつも乗る市電の乗客と全くちがうのに気がついて少し驚いた。おはぐろのような臭気が車内にみなぎっていたが出所は分からない。乗客の全部の顔が狸や猿のように見えた。毛孔の底に煤と土が沈着しているらしい。向い側に腰かけた中年の男の熟柿のような顔の真ん中に二つの鼻の孔が妙に大きく正面をにらんでいるのが気になった。上野で乗換えると乗客の人種が一変する。ここにも著しい異質の接触がある。
 広小路《ひろこうじ》の松坂屋へはいって見ると歳末日曜の人出で言葉通り身動きの出来ない混雑である。メリヤスや靴下を並べた台の前には人間の垣根が出来てその垣根から大小色々な無数の手が出てうごめきながら商品をつまぐり引っぱり揉《も》みくたにしている。どの手の持主がどの人だかとても分からない。大量|塵芥《じんかい》製造工場のようなものである。また万引奨励機関でもある。
 これらの現象もやはり交通文明の発達と聯関しているようである。
 小さな不連続線が東京へかかったと見えて、狂風が広小路を吹き通して紳士の帽を飛ばし淑女の裾を払う。寒暖二様の空気が関東平野の上に相戦うために起る気象現象である。気層の不平の結果である。
 昔、不平があると穴を掘っては
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