大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからであろう。
岩波文庫の「仰臥漫録」を夏服のかくしに入れてある。電車の中でも時々読む。腰かけられない時は立ったままで読む。これを読んでいると暑さを忘れ距離を忘れる事ができる。
「朝 ヌク飯三ワン 佃煮《ツクダニ》 梅干《ウメボシ》 牛乳一合ココア入リ[#「ココア入リ」は本文より小さいサイズの文字] 菓子パン 塩センベイ……」こういう記事が毎日毎日繰り返される。それが少しもむだにもうるさくも感ぜられない。読んでいる自分はそのたびごとに一つ一つの新しき朝を体験し、ヌク飯のヌクミとその香を実感する。そして著者とともに貴重な残り少ない生の一日一日を迎えるのである。牛乳一合がココア入りであるか紅茶入りであるかが重大な問題である。それは政友会《せいゆうかい》が内閣をとるか憲政会《けんせいかい》が内閣をとるかよりははるかに重大な問題である。
昼飯に食った「サシミノ残リ」を晩飯に食ったという記事がしばしば繰り返されている。この残りの刺身《さしみ》の幾片かのイメージがこの詩人の午後の半日の精神生活の上に投
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