る。
皮膚の感覚についてのみ言われるこの涼味の解釈を移して精神的の涼味の感じに転用する事はできないか、これもまた心理学者の一問題となりうるであろう。
向日葵
中庭の籐椅子《とういす》に寝て夕ばえの空にかがやく向日葵《ひまわり》の花を見る。勢いよく咲き盛る花のかたわらにはもうしなびかかってまっ黒な大きな芯《しん》の周囲に干《ひ》からびた花弁をわずかにとどめたのがある。大きくなりそこなってまね事のように、それでもこの花の形だけは備えて咲いているのもある。大きな葉にも完全なのは少なく、虫の食ったのや、半分黒くなって枯れしぼんだのもある。そういう不ぞろいなものを引っくるめたすべてが生きたリアルな向日葵の姿である。しおれた花、虫ばみ枯れかかった葉を故意にあさはかな了簡《りょうけん》で除いて写した向日葵の絵は到底リアルな向日葵の絵ではあり得ない。
精巧をきわめたガラス細工の花と真実の花との本質的な相違はこういう点にもある。写実を尊んで理想を一概に排斥する極端論者の説にも一理はある。実際ある浅薄な理想主義の芸術はまさにしんこ細工の花のようなものである。しかしそうかと言って虫食いや黴菌《ばいきん》のために変色した葉ばかりを強調した表現主義にも困る、ドイツあたりの近ごろの絵画にはそんな傾向が見えるのもありはしないか。
物理学上の文献の中でも浅薄な理論物理学者の理論的論文ほど自分にとってつまらないものはない。論理には五分もすきはなく、数学の運算に一点の誤謬《ごびゅう》はなくても、そこに取り扱われている「天然《ネチュアー》」はしんこ細工の「天然」である。友禅の裾模様《すそもよう》に現われたネチュアーである。底の知れない「真」の本体はかえってこのためにおおわれ隠される。こういう、たとえば花を包んだ千代紙のような論文がドイツあたりのドクトル論文にはおりおり見受けられる。
ほんとうにすぐれた理論物理学者の論文の中には、真に東洋画特に南画中の神品を連想させるものがある。一見いかに粗略でしかも天然を勝手にゆがめて描いてあるようでも、そこにつかまれてあり表現されてあるものは生きた天然の奥底に隠れた生きた魂である。こういう理論はいわゆる fecund な理論でありそれに花が咲き実を結んで人間の文化に何物かを寄与する。
理想芸術でもすぐれた南画まで行けば科学的にも立派であるように理論物理学もいいものになるとやはり芸術的にも美しい。
純粋な実験物理学者は写実主義の芸術家と似通った点がある。自分の目で自分の前のむき出しの天然を観察しなければならない。それが第一義でありまた最大の難事であるのに、われわれの目は伝統に目かくしされ、オーソリティの光に眩惑《げんわく》されて、天然のありのままの姿を見失いやすい。現在目の前に非常におもしろい現象が現われていても、それが権威の文献に現われてない事であると、それはたぶんはつまらない第二義の事がらのように思われて永久に見のがされてしまう。われわれの目はただ西洋のえらい大家の持ち扱い古した、かびのはえた月並みの現象にのみ目を奪われる。そして征服者の大軍の通り去った野に落ちちらばった弾殻《たまがら》を拾うような仕事に甘んじると同じような事になりがちである。
写実画派の後裔《こうえい》の多数はただ祖先の目を通して以外に天然を見ない。元祖の選んだ題材以外の天然を写すものは異端者であり反逆者である。
向日葵《ひまわり》の花を見ようとするとわれわれの目にはすぐにヴァン・ゴーホの投げた強い伝統の光の目つぶしが飛んで来る。この光を青白くさせるだけの強い光を自分自身の内部から発射して、そうして自分自身の向日葵を創造する事の困難を思うてみる。それはまさにおそらくあらゆる科学の探究に従事するものの感ずる困難と同種類のものでなければならない。
線香花火
夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。
はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹《ぼたん》の花弁のように放出され、その反動で全体は振り子のように揺動する。同時に灼熱《しゃくねつ》された熔融塊《ようゆうかい》の球がだんだんに生長して行く。炎がやんで次の火花のフェーズに移るまでの短い休止期《ポーズ》がまた名状し難い心持ちを与えるものである。火の球は、かすかな、ものの煮えたぎるような音を立てながら細かく震動している。それは今にもほとばしり出ようとする勢力《エネ
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