ありがたい事である。自分のからだじゅうの血液ははじめてどこにも停滞する事なしに毛細管の末梢《まっしょう》までも自由に循環する。たぶんそのためであろう、脳のほうが軽い貧血を起こして頭が少しぼんやりする。聴覚も平生よりいっそう鈍感になる。この上もなく静寂で平和な心持ちである。
 昼間暑い盛りに軽い機械的な調べ仕事をするのも気持ちがいい。あまり頭を使わないで、そしてすればするだけ少しずつ結果があがって行くから知らず知らず時を忘れ暑さを忘れる。
 陶然として酔うという心持ちはどんなものだか下戸《げこ》の自分にはよくわからない。少なくも酒によっては味わえない。しかし暑い盛りに軽い仕事をして頭のぼうっとした時の快感がちょうどこの陶然たる微酔の感と同様なものではないかと思われる。そんなとき蝉《せみ》でもたくさん来て鳴いてくれるといいのであろうが、このへんにはこの夏のオーケストラがいないで残念である。
 喫茶店《きっさてん》の清潔なテーブルへすわって熱いコーヒーを飲むのも盛夏の候にしくものはない。銀器の光、ガラス器のきらめき、一輪ざしの草花、それに蜜蜂《みつばち》のうなりに似たファンの楽音、ちょうどそれは「フォーヌの午後」に表わされた心持ちである。ドビュッシーはおそらく貧血性の冷え症ではないかと想像される。
 夜も夏は楽しい。中庭へ籐椅子《とういす》を出して星をながめる。スコルピオン座や蟹座《かにざ》が隣の栗《くり》のこずえに輝く。ことしは花壇の向日葵《ひまわり》が途方もなく生長して軒よりも高くなった。夜目にも明るい大きな花が涼風にうなずく。
 人のいやがる蚊も自分にはあまり苦にならない。中学時代にひと夏裏の離れ屋の椅子に腰かけて読書にふけり両足を言葉どおりにすきまなく蚊に食わせてから以来蚊の毒に免疫となったせいか、涼み台で手足を少しぐらい食われてもほとんど無感覚である。蚊のいない夏は山葵《わさび》のつかない鯛《たい》の刺身《さしみ》のようなものかもしれない。
 夕立の来そうな晩ひとり二階の窓に腰かけて雲の変化を見るのも楽しいものである。そういう時の雲の運動はきわめて複雑である。方向も速度も急激に変化する。稲妻でもすればさらにおもしろい。いかなる花火もこの天工のものには及ばない。
 来そうな夕立がいつまでも来ない。十二時も過ぎて床にはいって眠る。夜中に沛然《はいぜん》たる雨の音で目がさめる。およそこの人生に一文も金がかからず、無条件に理屈なしに楽しいものがあるとすれば、おそらくこの時の雨の音などがその一つでなければならない。これは夏のきらいな人にとってもたぶん同じであろうと思う。
 冬を享楽するのには健康な金持ちでなければできない、それに文化的の設備が入用である。これに反して夏は貧血症の貧乏人の楽園であり自然の子の天地である。

     涼味

 涼しいという言葉の意味は存外複雑である。もちろん単に気温の低い事を意味するのではない。継続する暑さが短時間減退する場合の感覚をさして言うものとも一応は解釈される。しかし盛夏の候に涼味として享楽されるものはむしろ高温度と低温度の急激な交錯であるように見える。たとえば暑中氷倉の中に一時間もはいっているのは涼しさでなくて無気味な寒さである。扇風機の間断なき風は決して涼しいものではない。
 夏の山路を歩いていると暑い空気のかたまりと冷たい空気のかたまりとが複雑に混合しているのを感じる。そのかたまりの一つ一つの粒が大きい事もあるし小さい事もある。この粒の大きさの適当である時に最大の涼味を感じさせるようである。しかしまだこの意味での涼味の定量的研究をした学者はない。これは気象学者と生理学者の共同研究題目として興味あるものであろう。
 倉庫や地下室の中の空気は温度がほとんど均等でこのような寒暑の粒の交錯がない、つまり空気が死んでいる。これに反して山中の空気は生きている。温度の不均等から複雑な熱の交換が行なわれている。われわれの皮膚の神経は時間的にも空間的にも複雑な刺激を受ける。その刺激のために生ずる特殊の感覚がいわゆる涼しさであろう。
 暑中に灸《きゅう》をすえる感覚には涼しさに似たものがある。暑い盛りに熱い湯を背中へかける感じも同様である。これから考えられる一つの科学的の納涼法は、皮膚のうちの若干の選ばれた局部に適当な高温度と低温度とを同時に与えればわれわれはそれだけで涼味の最大なるものを感じうるのではないか。あるいは一局部に適当な週期で交互に熱さと寒さを与えるのがいいかもしれない。これは実験生理学者にとって好箇《こうこ》の研究題目となりそうなものである。
 この仮説を敷衍《ふえん》すれば、熱い酒に冷たい豆腐のひややっこ、アイスクリームの直後のホットカフェーの賞美されるのもやはり一種の涼味の享楽だという事にな
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