古い過去における水陸分布の状態と現在のそれとの異同が問題となり、その一つの参考資料としていろいろな土地の地名の意義が引き合いに出る場合がある。そこで本邦地名の問題に触れるとなれば、自然の勢いで、アイヌ語や朝鮮語による地名起原説を参照しなければならぬ事になる。そうなると問題は自然自然に推移して結局は日本語の成立問題にまでも多少は触れないわけには行かなくなるのである。
そうかと言って、自分でこのような大問題をどうにかしようという非望を企てるわけにも行かないわけであるが、それでもただやみがたい好奇心から、余暇あるごとに少しずつ、だんだんに手近い隣接国民の語彙《ごい》を瞥見《べっけん》する事になり、それが次第次第に西漸していわゆる近東から東欧方面までも、きわめて皮相的ながらのぞいて見るような行きがかりになって来たのである。
こういう素人遊戯《しろうとゆうぎ》――自分では真剣なつもりであっても、専門の学者の立場から見れば結局こういうよりほかはないであろう――にふけっている一方で、かねてから、これも道楽として、心がけている日本楽器の沿革に関する考証は自然に世界各地の楽器の比較に移って行く、その途中で、遠くかけ離れた異種民族の楽器が、その楽器としての本質においてのみならず、またその名称においても、一脈の連鎖によって互いにつながっているらしく見える現象に逢着《ほうちゃく》して、奇異の感に打たれる事もしばしばあった。もちろん楽器の原理は物理学的に普遍なものであるから、各国に同一な楽器のあるのは当然であり、また楽器の名称が往々擬音から生ずるとすれば、類似の名称のあるのは当然であると言って、簡単に片付けて投げ出してしまえばそれまでである。しかしそれで打ち切ってしまうのは少し危険であると思わせる理由がいろいろ他の方面から供給されるようである。
少し唐突ではあるが地球上における蚯蚓《みみず》の分布を調べた学者の研究の結果によると、ある種の蚯蚓は、東は日本から海を越えて大陸に、欧亜大陸を横断して西はスペインの果てまで広がり、さらに驚くべき事には大西洋を渡って北米合衆国の東部にまでも分布されているのである。大陸移動説を唱えたウェーゲナーは、この事実をもってヨーロッパと北米大陸とが往昔連結していたという自説の証拠の一つとしてこれを引用しているくらいである。それはとにかく、あの運動遅鈍なみみず[#「みみず」に傍点]でさえ、同じ種族と考えられるものが、「現時の大洋」を越えてまでも広がっているという事実を一方に置いて考えてみる。もちろんこの蚯蚓の先祖と人間の先祖とどちらが古いかというような問題はあってもそれは別として、この事実はともかくも、過去の世界じゅうの人間の間の相互の交渉は、普通想像されているよりも、想像されうるであろうよりも、もう少し自由なものではなかったかという疑いを喚起させるには充分であろうと思う。
世界じゅうの人間の元祖が一つであろうという事は単に確率論的の考察からもいちばん考えやすい事であるが、今ここで軽々しくそういう大問題に触れようとは思わない。ただ少なくも動物学上から見て同種な Homo Sapiens としての人間の世界の一部において任意の時代に発生した文化の産物のすべてのものが、時とともに拡散して行くのは、ちょうど水の中にたらした一滴のアルコホルの拡散して行く過程と、どこか類似したものであろう、という想像は、理論上それほど無稽《むけい》なものではあるまいと思われる。
昔の詩人ルクレチウスは、物質の原子はちょうどアルファベットのようなもので、種々な言語が有限なアルファベットの組み合わせによって生ずるごとく、各種の物質がこれら原子の各種の組み合わせによって生ずると書き残したが、この考えは近世になって化学式というものによっていくらか科学的に実現された。今この考えを逆に持って行くとこんな考えも起こし得られる。すなわち、まず、言語、国語という一つの体系は若干の語根元素から組成されていると仮定する。次には、この元素が化合して種々の言語や文章が組成されているが、これらの間にはその化合分解の平衡に関するきわめて複雑な方則のようなものがあると想像する。なおこれらの元素は必ずしも不変なものではなくて、たとえば放射性《ラディオアクティヴ》物質のごとく、時とともに自然《スポンテニアス》に崩壊《ディスインテグレート》し変遷《トランスミュート》する可能性を持つものと想像する。それでかりに地球歴史のある一定の時期において、ある特別の地点において、特殊の国語が急に発生したと仮定すると、それはちょうど水中にアルコホルの一滴を投じたと同様に四方に向かって拡散《ディフュージョン》を始めるであろうと仮想される。すなわちその国語の語根のある一つだけを取って考えると、それは
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング