の効果がむしろ滑稽《こっけい》なる程度にまで買いかぶられているかと思うと、一方ではまた了解のできないほどに科学の能力が見くびられているのである。火災防止のごときは実に後者の適例の一つである。おそらく世界第一の火災国たる日本の消防がほとんど全く科学的素養に乏しい消防機関の手にゆだねられ、そうして、いちばん肝心な基礎科学はかえって無用の長物ででもあるように火事場からはいっさい疎外されているのである。
わが国で年々火災のために灰と煙になってしまう動産不動産の価格は実に二億円を超過している。年々火災のために生ずる死者の数は約二千人と見積もられている。十年たてば二十億円の金と二万人の命の損失である。関東震災の損害がいかに大きくてもそれは八十年か百年かに一回の出来事であるとすれば、これを年々根気よくこくめいに持続し繰り返す火事の災害に比すれば、長年の統計から見てはかえってそれほどのものではないと言われよう。
年に二千人と言えば全国的に見て僅少《きんしょう》かもしれないが、それでも天然痘や猖紅熱《しょうこうねつ》で死ぬ人の数よりは多い。また年二億円の損失は日本の世帯から見て非常に大きいとは言われないかもしれないが、それでも輸入超過年額の幾割かに当たり、国防費の何十プロセントにはなりうる。
これほどの損害であるのに一般世間はもちろんのこと、為政の要路に当たる人々の大多数もこれについてほとんど全く無感覚であるかのように見えるのはいったいどういうわけであるか、実に不思議なようにも思われるのである。議会などでわずかばかりの予算の差額が問題になったり、またわずかな金のためにおおぜいの官吏の首を切ったり俸給《ほうきゅう》を減らしたりするのも結構であるが、この火災による損失をいくぶんでも軽減することもたまには講究したらどんなものであろうかと思われる。この損失は全然無くすることは困難であるとしても半分なり三分の一なりに減少することは決して不可能ではないのである。
火災による国家の損失を軽減してもなるほど直接現金は浮かび上がっては来ない。むしろかえって火災は金の動きの一つの原因とはなりうるかもしれない。このことが火災の損害に対する一般の無関心を説明する一つの要項であるには相違ないのであるが、しかしともかくも日本の国の富が年々二億円ずつ煙と灰になって消失しつつある事実を平気で見過ごすということは少なくも為政の要路に立つ人々の立場としてはあまりに申し訳のないことではないかと思われるのである。
文明を誇る日本帝国には国民の安寧を脅かす各種の災害に対して、それぞれ専門の研究所を設けている。健康保全に関するものでは伝染病研究所や癌《がん》研究所のようなもの、それから衛生試験所とか栄養研究所のようなものもある。地震に関しては大学地震研究所をはじめ中央気象台の一部にもその研究をつかさどるところがある。暴風や雷雨に対しては中央気象台に研究予報の機関が完備している。これらの設備の中にはいずれも最高の科学の精鋭を集めた基礎的研究機関を具備しているのである。しかるにまだ日本のどこにも一つの理化学的火災研究所のある話を聞いた覚えがないのである。
もちろん警視庁には消防部があって、そこでは消防設備方法に関する直接の講究練習に努力しておられることは事実であるが、ここでいわゆる火災研究とはそういうものではなくて、火災という一つの理化学的現象を純粋な基礎科学的な立場から根本的徹底的に研究する科学的研究をさしていうのである。
研究すべき問題は無数にある。発火の原因となるべき化学的物理学的現象の研究だけでもたくさんの問題が未解決のまま残されている。たとえばつい近ごろアメリカで、巻き煙草《たばこ》の吸いがらから火事の卵のできる比率条件について実験的研究を行なった結果の報告が発表されていた。しかしその結果が気候を異にする日本にどこまで適用されうるかについてはだれも知らない。またたとえばガソリンが地上にこぼれたときいかなる気象条件のもとにいかなる方向にいかなる距離で引火の危険率が何プロセントであるかというようなことすらだれもまだ知らないことである。
火災延焼に関する方則も全然不明である。延焼を支配するものは当時の風向風速気温湿度等のみならず、過去の湿度の履歴効果も少なからず関係する。またその延焼区域の住民家屋の種類、密集の程度にもよることもちろんである。これらの支配因子が与えられた場合に、火災が自由に延焼するとすればいかなる速度でいかなる面積に広がるかという問題についてたしかな解答を与えることは現在において困難である。しかしこれとても研究さえすれば次第に判明すべき種類の事がらである。この基礎的の方則が判明しない限り大火に対する有効な消防方針の決定されるはずはないのである。
火災の基
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