分の俳諧がある。型式的概念的に堕した歌人の和歌などとは自ずからちがった自由な自然観が流露している。「青葉になりゆくまで、よろづにたゞ心をのみぞなやます」というような文句でも、国語の先生の講義ではとても述べられない俳諧がある。同じことを云った人が以前に何人あろうがそんなことは問題にならない。この文句が『徒然草』の中のこの場所にあって始めて生きて、そうして俳諧となるのである。ここで自分のいわゆる俳諧は心の自由、眼の自由によってのみ得られるものなのである。
 兼好《けんこう》はこの書の中で色々の場所で心の自由を説いている。例えば第三十九段で法然上人《ほうねんしょうにん》が人から念仏の時に睡気《ねむけ》が出たときどうすればいいかと聞かれたとき「目のさめたらんほど念仏し給へ」と答えたとある。またいもがしらばかり食った盛親僧都《じょうしんそうず》の話でも自由風流の境に達した達人の逸話である。自由に達して始めて物の本末を認識し、第一義と第二義を判別し、末節を放棄して大義に就くを得るということを説いたのには第百十二段、第二百十一段などのようなものがある。反対にまた、心の自由を得ない人間の憐むべく笑うべ
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