《は》まるのは実に面白いと思う。科学の事でさえそうである。いわんや嘘か本当か結局証明の不可能な当世流行何々イズムなどに対する人々の態度には猶更よくあてはまるであろう。読者は試みに例えば、マルキシズムに対する現代各人各様の態度を「あまりに深く信をおこして」以下の数行にあてはめて見るとなかなかの興味があるであろう。ありとあらゆる可能な態度のヴァリアチオンが列挙してあるので、それらの各種の代表者を現代の吾々の周囲から物色するとすぐにそれぞれの標本が見付かる、そうして最後に自分自身がやはりそのうちのどれかのタイプに属することを発見して苦笑する人が多いであろう。
 このような人間の心理に関する分析的な考察も、すべてがこの著者のオリジナルなものではないであろう。清少納言から西鶴を通じて現代へ流れて来ている一つの流れの途中の一つの淀みのようなものに過ぎないかもしれないが、しかし、兼好法師という人の頭がかなりこういう分析にかけて明晰であったこともたしかであろうと思われる。
 迷信に関する第九十一段なども頭の明らかなことを証する一例である。「吉日を選びてなしたるわざの、すゑとほらぬを数へてみんもひとしかるべし」というのは、現代の科学者が統計学の理論を持出してしかめつらしく論じることを、すらすらと大和言葉で云っているのである。この道理を口を酸《す》くして説いても、どうしても耳に入らぬ人が現代のいわゆる知識階級や立派な学者の中にでもいくらでも見出されるのは面白い現象である。
 尤も、第二百三十段を見ると、狐《きつね》が化け得ることを認めているようであるが、これは当時の科学知識の水準から考えて当然の事である。今日の科学知識でも明日はどうなるか分からぬものはいくらでもあるし、また現代の科学者でも狐に化かされる人はいくらでもあるのである。狐の事は第二百十八段にもある。ここでは狐が喰い付く動物になっている。
 第六十八段、大根が兵士に化ける話は少し怪しいが、次の六十九段と合せて読んで見ると寓意《ぐうい》を主として書いたものとも思われる。
 迷信とは少し事変るがいわゆるゴシップの人を迷わす例がある。猫又《ねこまた》のゴシップの力で犬が猫又になる話や、ゴシップから鬼が生れて京洛《けいらく》をかけ廻る話などがそれである。現代の新聞のジャーナリズムは幾多の猫又を製造しまた帝都の真中に鬼を躍らせる。新聞の醸成したセンセーショナルな事件は珍しくもない。例えば三原山の火口に人を呼ぶ死神などもみんな新聞の反古《ほご》の中から生れたものであることは周知のことである。
 第三十八段、名利《みょうり》の欲望を脱却すべきを説く条など、平凡な有りふれの消極的名利観のようでもあるが、しかしよく読んでみると、この著者の本旨は必ずしも絶対に名利を捨てよというのではなく、「真の名利」を求めるための手段として各人の持つべき心掛けを説いているようにも思われる。それはとにかく、現代に活動している人でもこの一段の内容を適当に玩味することが出来れば名利の誘惑に逢って身を亡ぼすような災難を免れるだけの護符を授かるであろうと思われる。第百三十段もこれに聯関している。
 名利観に限らず、この著者は色々な点で人間の人間らしい人間性というかあるいは弱点というか、そういうものを事実として肯定した上で、これに対するプラグマチックな処世道を説いているようなところがある。第五十八段に実用向遁世法を説いているのなどもその傾向を示すかと思う。この著者がどうかすると腥《なまぐ》さ坊主と云われる所以《ゆえん》かもしれない。
 一方では玉の巵《さかずき》に底あることを望んだり、久米《くめ》の仙人に同情したり、恋愛生活を讃美したりしているが、また一方では(第百七段)ありたけの女性のあらを書き並べて痛快にこき下ろしているのである。一種の弁証法を用いたのであろう。
 色を説いた著者はまた第二百十七段で蓄財者の心理を記述しこれに対する短評を試みている。引用された大福長者の言葉は現代の百万長者でもおそらく云うことであろうし、金持になりたい人々の参考すべき「何とか押切帖《おしきりちょう》」の類であろうが、またこれに対する著者の評は、金のたまらぬ人間の安心立命《あんじんりゅうめい》の考え方を示すものである。
 酒飲む人のだらしのなさを描いた第百七十五段も面白い。六百年昔の酒飲みも今日の呑んだくれとよく似ている。それで絶対に禁酒を強調するかと思っていると、「おのづから捨てがたき折もあるべし」などとそろそろ酒の功能を並べているのもやはり「科学的」なところがある。
 勝負事を否定する(第百十一段)かと思うと、双六《すごろく》の上手の言葉を引いて(第百十段)修身治国の道を説いたり、ばくち打の秘訣(第百二十六段)を引いて物事には機会と汐時《しおどき》
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