くまた悲しむべき現象を記録したものが非常に沢山に収集されていて、それがまたこの随筆集中の最も面白い部分をなしているのである。似非風流《えせふうりゅう》や半可通《はんかつう》やスノビズムの滑稽、あまりに興多からんことを求めて却って興をさます悲喜劇、そういったような題材のものの多くでは、これをそのままに現代に移しても全くそのままに適合するような実例を発見するであろう。十四世紀の日本人に比べて二十世紀の日本人はほとんど一歩も進んでいないという感を深くさせるのはこれらの諸篇である。新しがることの好きな人は「一九三三年である。今頃『徒然草』でもあるまい」と云うが、そういう諸君の現在していることの予報がその『徒然草』にちゃんと明記してあるのである。
鼎《かなえ》をかぶって失敗した仁和寺《にんなじ》の法師の物語は傑作であるが、現今でも頭に合わぬイズムの鼎をかぶって踊って、見物人をあっと云わせたのはいいが、あとで困ったことになり、耳の鼻も※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取られて「からき命まうけて久しく病みゐる」人はいくらでもある。
心の自由を得てはじめて自己を認識することが出来る。そこから足ることを知る節制謙譲が生まれるであろう、と教える東洋風の教えがこの集のところどころに繰返して強調されている。例えば第百三十四段から第百三十七段までを見ただけでも大体のものの考え方がわかる。第百三十七段の前半を見れば、心の自由から風流俳諧の生まれる所以《ゆえん》を悟ることが出来よう。
このような思想はまた一面において必然的に仏教の無常観と結合している。これは著者が晩年に僧侶になったためばかりでなく大体には古くからその時代に伝わったものをそのままに継承したに過ぎないであろう。とにかく全巻を通じて無常を説き遁世《とんせい》をすすめ生死《しょうじ》の一大事を覚悟すべしと説いたものが甚だ多い。このような消極的な思想は現代の青年などにはおよそ縁の無いもののようにも思われるが、しかしよく読んでみると必ずしもそうでないようである。昭和の今日でも道を求め真を索《たず》ねるものの修業の道は本質的には昔の仏道修業者の道とそれほどちがったものではないようである。例えば第九十二段に弓の修業の心得から修道者の覚悟を説くのでも、直ちに移して以《もっ》て吾等科学研究者の坐右の銘とすることが出来る。また第百十二段に大事の前に小事を棄つべきを説く条でも同様である。国のために、道のために、主義のために、真理の探究のために心を潜めるものは、今日でも「諸縁を放下《ほうげ》すべき」であり、瑣々《ささ》たる義理や人情は問題にしないのである。それが善い悪いは別として、そうしなければ大願望が成就《じょうじゅ》しないことだけはたしかである。そういう「事実の方則」がこの書の到る処に強調されているのを見逃すことは出来ないのである。
かように、一方では遁世を勧めると同時に、また一方では俗人の処世の道を講釈しているのが面白い。これは矛盾でもなんでもない。ただ同じ事のちがった半面を云っているのであろう。
世間に立交《たちまじ》わって人とつき合うときの心得を説いたものが案外に多い。これも現代にそのまま適用するものが多い。いわゆる「成功の秘訣」にでもありそうなことや、「英国風紳士道教程」の一つのチャプターといったようなもののあるのは面白い。第十二、三十六、三十七、五十六、七十三、百七等の諸段はその例である。いずれも平凡と云えば平凡のことであるが、この平凡事を忘れているために大きな損をしている人は現在の世間にでも存外多いらしい。
第百九十三段「くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、更にあたるべからず、云々」の条など現代の諸専門学者の坐右銘になる。ある一つの狭い専門の領域内でほんの少しばかり得るところが出来ると、もうすっかり思い上がって、冷静な第三者から見ればその人とは到底比較にならぬほど優れた他の学者のほんの少しの知識の不足を偶然に発見でもすると、それだけでもう自分がその相手に比して全般的に優ると思ったりするのは滔々《とうとう》として天下の風をなしている。人の書いた立派な著書の中から白玉《はくぎょく》の微瑕《びか》のような一、二の間違いを見付けてそれをさもしたり顔に蔭で云いふらすのなどもその類であるかもしれない。これは悪口でなく本当にある現象である、
その次の第百九十四段及び第七十三段に「嘘のサイコロジー」を論じたものなども科学者の参考になる。これは「嘘」とは事変るが、アインシュタインの相対性原理がまだ十分に承認されなかった頃、この所論に対する色々な学者の十人十色の態度を分類してみると、この『徒然草』第百九十四段の中の「嘘に対する人々の態度の種々相」とかなりまでぴったり当て嵌
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