これは略して述べない。)以上はただ一例に過ぎないが、私の観測したその他の場合にも、だいたいこれと同様な趨勢《すうせい》が認められるのである。
 それでともかくも、全く顧慮なしにいつでも来かかった最初の電車に飛び乗る人にとっては、すいたのにうまく行き会う機会が少なくて、込んだのに乗る機会が著しく多い。そういう経験の記憶が自然に人々の頭にしみ込む。おそらく込み合っていた多数の場合の記憶は、まれにすいていた少数の場合の記憶よりも強く印銘せられるとすると、以上の比例の懸隔は、心理的に変化を受け、必ずいくぶんか誇張されて頭に残るかもしれない。従って多くの人はついついすいた電車の存在を忘れて、すべてのものが満員であるような印象をもつ事になるかもしれない。
 この最後の点は不確かだとしても、次の結論は免れ難い、すなわち「来かかった最初の電車に乗る人は[#「来かかった最初の電車に乗る人は」に傍点]、すいた車に会う機会よりも込んだのに乗る機会のほうがかなりに多い[#「すいた車に会う機会よりも込んだのに乗る機会のほうがかなりに多い」に傍点]。」
 このようにして、込んだ車にはますます多くの人が乗るとすれば
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