の僅少《きんしょう》な時間を空費したとしても、乗車してからの数十分間にからだを休息させ、こういう時でなければちょっと読む機会のないような種類の読み物を十ページでも読むとすれば、差し引きして、どうしてもこのほうが利益であるとしか思われない。さらに私にとって重大なのは下車後の身心の疲労をこうして免れる事である。
 目的地に一分ないし二分早く到着する事がそれほど重大であるような場合は、少なくも私のようなものにはほとんど皆無であると言ってもいいのである。私のようなものでなくても、下車後にこれくらいの時を浪費しないという保証をしうる人が何人あるか疑わしい。
 このような事はおそらくわかりきった事であって、だれでも知りきっている事でなければならない。それにもかかわらず、大多数の東京市内電車の乗客は、長い休止の後に来る最初の満員電車に先を争って乗らなければ気が済まないように見える。これは自分のようなものにはほとんど了解のできない心持ちであるが、しかしよく考えてみると、これがあるいはわが国民性の何かの長所と因縁があるかもしれない。たとえば日本人が戦争に強いというような事実とどこかで連関しているのかもしれない。あるいはまたいわゆる現代思想と称せらるる漠然《ばくぜん》としたもののなんらかの具象的発現であるかもしれない。これについては軽卒な批判を避けなければならない。
 しかしここで私の考えてみたいと思う事は、そういう大多数の行為の是非の問題ではなくて、そういう一般乗客の傾向から必然の結果として起こる電車混雑の律動に関する科学的あるいは数理的の問題である。
 問題を簡単にするために、次のような場合を考えてみる。すなわち、ある終点からある一定時間ごとに発車する電車が、皆一様な速度で進行し、また途中の停留所でも一定時間だけ停車するように規定されたとする。もしこの規定が完全に実行されれば、その線路の上の任意の一点を電車が相次いで通過する時間間隔は、やはりどれも同一でなければならない。しかるに実際上は、避くべからざる雑多の複雑な偶然的原因のために、この一定であるべき間隔に少しずつの異同を生じ、理想的にはたとえばTであるべき間隔が T+ΔT[#「ΔT」は縦中横] となる。この ΔT[#「ΔT」は縦中横] は正負大小種々であって、いわゆるガウスの誤差方則、または類似の方則によって分布されるものであろ
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