らかにするには、各間隔の回数に、その間隔の時間を乗じた積の和を比較してみなければならない。今試みに間隔を一分ごとに区別分類して、各区分内の間隔回数にその区分の平均時間数を乗じたものの和を求めてみると、かりに五分以上の間隔を度外視して計算してみても、二分以下のものに対して二分以上五分までのもののこの積分の比は二三、五と四六、五すなわち約一と二の比になる。もしこれに時々起こる五分以上の間隔を加えて計算すると、この懸隔はさらに著しくなる。
 これは何を意味するか。
 個々の乗客が全く偶然的に一つの停留所に到着したときに、ある特別な間隔に遭遇するという確率《プロバビリティ》は、あらゆる種類の間隔時間とその回数との相乗積の総和に対するその特別な間隔の回数と時間との積の比で与えられる。そこでたとえば前の例について言えば二分以下の間隔に飛び込む機会は三度に一度で、二分以上五分までの長い間隔にぶつかるほうは三度に二度の割合になる。実際は五分以上のものが勘定に加わるからおそらくこの割合は四度に三度ぐらいになる場合が多いだろうと思われる。(停留所で待つ時間の確率を論じるには、もう少し立ち入る必要があるが、これは略して述べない。)以上はただ一例に過ぎないが、私の観測したその他の場合にも、だいたいこれと同様な趨勢《すうせい》が認められるのである。
 それでともかくも、全く顧慮なしにいつでも来かかった最初の電車に飛び乗る人にとっては、すいたのにうまく行き会う機会が少なくて、込んだのに乗る機会が著しく多い。そういう経験の記憶が自然に人々の頭にしみ込む。おそらく込み合っていた多数の場合の記憶は、まれにすいていた少数の場合の記憶よりも強く印銘せられるとすると、以上の比例の懸隔は、心理的に変化を受け、必ずいくぶんか誇張されて頭に残るかもしれない。従って多くの人はついついすいた電車の存在を忘れて、すべてのものが満員であるような印象をもつ事になるかもしれない。
 この最後の点は不確かだとしても、次の結論は免れ難い、すなわち「来かかった最初の電車に乗る人は[#「来かかった最初の電車に乗る人は」に傍点]、すいた車に会う機会よりも込んだのに乗る機会のほうがかなりに多い[#「すいた車に会う機会よりも込んだのに乗る機会のほうがかなりに多い」に傍点]。」
 このようにして、込んだ車にはますます多くの人が乗るとすれば
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング