は少し注意して見れば分る。モーターの早い規律正しい廻転から起る音の中にはかなり純粋な楽音がいくつかある。しかし電車の中で歌いたくなる人はあまりなさそうである。たとえ取締規則がこれを許しても、また二、三の変り者が実例を示して鼓吹《こすい》したにしてもあまり流行はしそうもない、してもあの緊張した空気の中で好い声が楽に出ようとは思われない。
 電車のゴウゴウと鳴る音のエネルギーの源をだんだんに捜して行くと思い掛けない甲州の淋しい山中の谷川に到着する。気持のいい谷川の瀬の音と電車の音とは実は従兄弟《いとこ》である。それから電車のポールの尖端から出る気味の悪い火花も、日本アルプスを照らす崇厳《すうごん》な稲妻の曾孫《ひまご》くらいのものに過ぎない。しかし同じ源から出たエネルギーはせち辛い東京市民に駆使される時に苦しい唸《うめ》き声を出し、いらだたしい火花を出しながら駆使者の頭上に黒い呪《のろい》を投げている。
 科学の示す可能の範囲は多くの人の予想以外に広いものである。それにもかかわらず現代の応用科学の産み出した文化は天地間のエネルギーを駆使して多くの唸《うな》り声や吼声《ほえごえ》を製造するに忙しい。このエネルギーの小部分を割《さ》いて電車の乗客の顔を柔らげる目的に使用する事は出来ないものだろうか。科学がキャピタリズムやミリタリズムやないしボルシェヴィズムの居候《いそうろう》になっているうちは、まあ当分見込がなさそうに思われる。
 満員電車にぶら下がっている人々の傍《そば》を自動車で通る人があるから世の中に社会主義などというものが出来るという人がある。一応|尤《もっと》もらしく聞える。何とかいう芝居で鋳掛屋《いかけや》の松という男が、両国橋の上から河上を流れる絃歌の声を聞いて翻然大悟しその場から盗賊に転業したという話があるくらいだから、昔から似よった考えはあったに相違ない。しかしまた昔はずいぶん人の栄華を見て奮発心を起して勉強した人も沢山あって、そういう事の方が多く讃美され奨励されていたようでもある。
 南向いている豚の尻を鞭《むち》でたたけば南へ駆け出し、北向いている野猪《やちょ》をひっぱたけば北へ向いて突進する。同じ鋳掛屋がもしも一風呂浴びてここを通りかかったのだったら、同じ絃歌の音は却《かえ》って彼の唱歌を誘い出したかもしれない。こう考えると日本のある種の過激思想の発
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