っている生徒らは、針でさされた風船玉のように小さくなってしまった。化学のK先生がそばにいて取り成しの役を勤められたのにお任せしてとにかく一同で謝罪と謹慎の意を表してゆるしてもらうことになったのである。
 われわれの在学中田丸先生はほとんど一度も欠勤されなかったような気がする。当時一方には、日曜の翌日、すなわち月曜日というと三度に一度は必ず欠勤するという先生もいたので、田丸先生の精勤はかなり有名であった。
 ある時|熊本《くまもと》の町を散歩している先生の姿を見かけた記憶がある。なんでも袖《そで》の短い綿服にもめん袴《ばかま》をはいて、朴歯《ほおば》の下駄《げた》、握り太のステッキといったようないで立ちで、言わば明治初年のいわゆる「書生」のような格好をしておられた。そうして妙な頭巾《ずきん》のような風変わりの帽子をかぶっておられたような気がする。とにかく他の先生がたに比べてよほど書生っぽい質素で無骨な様子をしておられたことはたしかである。
 まじめで、正直で、親切で、それで頭が非常によくて講義が明快だから評判の悪いはずはなかった。しかし茶目気分|横溢《おういつ》していてむつかしい学科はな
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