徒一同もすっかりしょげてしまい恐縮してしまったのであったが、とにかくもう一ぺん試験のやり直しをすることになり、今度は普通の中学校式の問題であったから、みんなどうにか及第点をとって、それで事は落着したのであった。
たしか二年のときであったと思うが、ある日、運動会のあった翌日だからというので、先生がたに交渉して休みにしてもらおうとした。ほかの先生はだいたい休みということになったが、物理の受け持ちの田丸先生はなかなか容易に承諾を与えられなかった。そこで生徒のほうで勝手に休むことに相談一決してみんなで失敬してしまったものである。先生が教場へはいってみるとそこにはたった一人、まじめで勉強家で有名な何某一人のほかにはだれもいなかった。その翌日になると一同で物理の講堂へ呼び出されて、当然の譴責《けんせき》を受けなければならなかった。その時の先生の悲痛な真剣な顔を今でもありあり思い出すことができるような気がする。それが生徒に腹を立ててどなりつけるのではなくて、いったいどうして生徒がそういう不都合をあえてするかということに関する反省と自責を基調とする合理的な訓戒であったのだから、元来始めから悪いにきまっている生徒らは、針でさされた風船玉のように小さくなってしまった。化学のK先生がそばにいて取り成しの役を勤められたのにお任せしてとにかく一同で謝罪と謹慎の意を表してゆるしてもらうことになったのである。
われわれの在学中田丸先生はほとんど一度も欠勤されなかったような気がする。当時一方には、日曜の翌日、すなわち月曜日というと三度に一度は必ず欠勤するという先生もいたので、田丸先生の精勤はかなり有名であった。
ある時|熊本《くまもと》の町を散歩している先生の姿を見かけた記憶がある。なんでも袖《そで》の短い綿服にもめん袴《ばかま》をはいて、朴歯《ほおば》の下駄《げた》、握り太のステッキといったようないで立ちで、言わば明治初年のいわゆる「書生」のような格好をしておられた。そうして妙な頭巾《ずきん》のような風変わりの帽子をかぶっておられたような気がする。とにかく他の先生がたに比べてよほど書生っぽい質素で無骨な様子をしておられたことはたしかである。
まじめで、正直で、親切で、それで頭が非常によくて講義が明快だから評判の悪いはずはなかった。しかし茶目気分|横溢《おういつ》していてむつかしい学科はな
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