されるに拘らず、時の要素の明瞭な表面が絶對必要とされるのは何故か。此れには深い理由があり、此事が又あらゆる文學中で俳句といふものに獨自な地位を決定する根本義とも連關して居ると思はれる。此に就て此處で詳しく述べて居る餘裕はないが、無常な時の流れに浮ぶ現實の世界の中から切り取つた生きた一つの斷面像を、その生きた姿に於て活々と描寫しようといふ本來の目的から、自然に又必然に起つて來る要求の一つが此の「時の決定」であることは、恐らく容易に了解されるであらうと思はれる。花鳥風月を俳句で詠ずるのは植物動物氣象天文の科學的事實を述べるのではなくて、具體的な人間の生きた生活の一斷面の表象として此等のものが現はれるときに始めて詩になり俳句になるであらう。
時の流れを客觀的に感ずるのは何等かの環境の流動變化にたよる外はない。年々の推移を「感ずる」のは春夏秋冬の循環的再歸によるのである。南洋の孤島のうちに、もしも、年中同じやうな氣候ばかり持續して居る處があるとすれば、其島の人には季節といふのは唯の言葉に過ぎないであらう。さういふ、春風もなければ秋風もない國では、季節の感じはありやうはなく、從つて俳句も生れ得
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング