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には萌え出る生命の暗示を含むと同時に何處となく春の淋しさがにじんである。細みがあつて、しかも弱からず、しをりがあつてしかも感傷に陷らないのである。いくらでも作れさうで中々作れない句であらう。
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市中は物のにほひや夏の月     凡兆
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 夏の晴れた宵の無風状態を「物の匂ひ」で描いたものである。月は銅色をして居て、町から町へ架け渡した橋の下には堀河の淀みがあるであらう。
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あれ/\て末は海行野分哉     猿雖
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 七百三十ミリメーターの颱風中心は本邦を斜斷して大平洋へ拔けた。濱邊に打上げられた藻屑の匂を感じ、ひやひやと肌に迫る汐霧を感じるであらう。
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だまされし星の光や小夜時雨     羽紅
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 見方によつては厭味[#「厭味」は底本では「壓味」]な所謂月並にもなり得るであらうが、時雨といふ現象の特徴をよく現はしたもので、氣象學教科書に引用し得るものであらう。古人の句には往々かういふ科學的の眞實を含んだ句があつて、理科教育を受け
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