からと云つて、芭蕉の句を剽竊であるに過ぎずと評し、一文の價値もなしと云ひ、又假りに剽竊でなく創意であつても猶平々凡々であり、「つれなくも」の一語は無用で此句のたるみであると云ひ、むしろ「あか/\と日の入る山の秋の風」とする方が或は可ならんかと云つて居る。併し自分の考は大分ちがうやうである。此の通りの古歌が本當にあつたとして、此れを芭蕉の句と並べて見ると、「須磨」や「明石」や「吹く」の字が無駄な蛇足であるのみか、此等がある爲に却つて芭蕉の句から感じるやうな「さび」も「しをり」も悉く拔けてしまつて殘るものは平凡な概念的の趣向だけである。此の一例は、俳句といふものが映畫で所謂カッティングと同樣な藝術的才能を要するといふことの適例であらう。平凡なニュース映畫の中の幾呎かを適當に切取ることによつて、それは立派な藝術映畫の一つのショットになり得る。一枝の野梅でもそれを切取つて活ける活け方によつて、それが見事ないけ花になるのと一般である。
同じく秋風の句で去來の「秋風や白木の弓に弦はらん」も有名であり又優れた句である。夏中に仕舞つたまゝで忘られて居た白木の弓を秋風來と共に取出して弦を張らうといふ、
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