天災と国防
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)揺曳《ようえい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宗教的|畏怖《いふ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和九年十一月、経済往来)
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「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳《ようえい》していることは事実である。そうして、その不安の渦巻《うずまき》の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。
 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵《くびす》を次いでわが国土を襲い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館《はこだて》の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿《きんき》地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大《じんだい》なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。
 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発《ひんぱつ》することがある。すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷《きとう》や厄払《やくばら》いの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異《ナチュラルフラクチュエーション》」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年
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