同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として生き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかはあるかもしれないが、浅学な私の知る範囲内では、外国の詩には自我と外界との対立がいつもあまりに明白に立っており、そこから理屈《フィロソフィー》が生まれたり教訓《モラール》が組み立てられたりする。万葉の短歌や蕉門《しょうもん》の俳句におけるがごとく人と自然との渾然《こんぜん》として融合したものを見いだすことは私にははなはだ困難なように思われるのである。
短歌|俳諧《はいかい》に現われる自然の風物とそれに付随する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳諧歳時記《はいかいさいじき》がある。俳句の季題と称するものは俳諧の父なる連歌を通して歴史的にその来歴を追究して行くと枕草子や源氏物語から万葉の昔にまでもさかのぼることができるものが多数にあるようである。私のいわゆる全機的世界の諸断面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つも
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