二科展院展急行瞥見記
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)好みに背馳《はいち》して
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)斎藤|豊作《ほうさく》氏の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和八年十月『中央美術』)
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九月三日は朝方荒い雨が降った、やがて止んだが重苦しい蒸暑さがじりじりと襲って来た。仕事をしていると『中央美術』から電話が掛かって今日が二科会展覧会の招待日であることを想い出させられた。数年前まではこの日を指折り数えて楽しみにしていたのが、近年どうしたわけか、急に興味が減退した。今年はとうとう肝心の日をすっかり忘れてしまっていたのである。甚だ申訳ない次第である。これは一つには自分がだんだん年を取ってすべてのものに対する感興の強度を減らしたためもあるかもしれないが、一つにはまた実際に近頃の二科会の絵の傾向が自分の好みに背馳《はいち》して来たように思われたためもある。昨年の会など、見ているうちに何だか少しむっとするような気がして来てとうとう碌《ろく》に見ないで帰って来て、それきりもう二度とは入場しなかったくらいである。勿論これは二科会の責任ではなくてただ自分という一人の人間の勝手な気持によるものである。しかし今年は「回顧陳列」というのがあるというので、これだけはぜひ見たいと思っていたものを、それすら当日の朝は綺麗《きれい》に忘れてしまっていたのである。これは耄碌《もうろく》と云われても仕方がない。
昼過ぎに上野へ出掛けたが、美術館前の通りは自動車で言葉通りに閉塞されていた。これも近年の現象である。美術が盛んになったのではなくて自動車が安くなったのであろう。
場内は蒸暑さに茹《う》だるようであった。この美術館の設計はたしかに日本の気候が西洋の気候とちがうという事実を知らないか、無視した人の設計である、といつも思うことである。
蒸暑さが丁度大正十二年九月一日の二科招待日を想い出させた。あの日も、午前に狂雨が襲来して、それが晴れ上がってからあの大地震が来た。今日の天候によく似ている。しかし昨朝八丈島沖に相当な深層地震があったのでそれで帳消しになったのかもしれない。あの日は津田君の「出雲崎《いずもざき》の女」が問題になっていて、喫茶室で同君からそのゆきさつの物語を聞いているうちに震《ふ》り出したのであった。その津田君は今年はもう二科には居なくなったのである。
回顧室に這入《はい》るとI君に会った。「どうも蒸暑い」というとI君は「絵もアツイ絵ばかりだから」という。
この室のものはさすがになつかしいものばかりである。斎藤|豊作《ほうさく》氏の「落葉する野辺」など昔見たときは随分けばけばしい生ま生ましいもののような気がしたのに、今日見ると、時の燻《いぶ》しがかかったのか、それとも近頃の絵の強烈な生ま生ましさに馴れたせいか、むしろ非常に落着いたいい気持のするのは妙なものである。坂本|繁二郎《はんじろう》氏のセガンチニを草体で行ったような牛の絵でも今見てもちっとも見劣りがしない。安井氏のを見ると同氏帰朝後三越かどこかであった個人展の記憶が甦《よみがえ》って来て実に愉快である。山下氏のでも梅原氏のでも、近頃のものよりどうしても両氏の昔のものの方が絵の中に温かい生き血がめぐっているような気がするのである。故関根|正二《しょうじ》氏の「信仰の悲み」でも、今の変り種の絵とはどうもちがった腹の底から来る熱が籠っていると思われる。すべての宗教には陰惨なエロチシズムの要素をもっているということをこの絵が暗示しているように思われる。中川|一政《かずまさ》氏の素朴な静物も今日よく見直してみてもやはり何とも説明し難い実に愉快なすがすがしさをもっている。これらの絵はみんな附焼刃でない本当に自分の中にあるものを真正面に打出したものとしか思われない。これに反して今時の大多数の絵は、最初には自分の本当の感じから出発するとしても、甚だしいソフィスチケーションの迂路《うろ》を経由して偶然の導くままに思わぬ効果に巡り会うことを目的にして盲捜りに不毛の曠野《こうや》を彷徨《ほうこう》しているような気がする。青く感じたものは赤く塗り、丸く見えたらいびつに描くというような概念的機械的方法によって製作しているのではないかという疑いが起るのは、やはり許してもらう外ない。
近頃の絵は概して「きたない」のが多い。九月二日に日比谷交叉点で、ひどい皮膚病に冒された犬を見た。犬は自分の汚さは自覚していないが、しかし癢《かゆ》いことは感ずるから後脚でしきりにぼりぼり首の周りを掻いていた。近頃のきたない絵もやはり自分のきたなさは感じないがその癢さを感じてぼりぼりブラシで引掻いた
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