になれば教育器械としてのプロフェッサーなどはだいぶ暇になることであろう。
 今からでも大書店で十六ミリフィルムを売り出してもよくはないか。そうして小さな試写室を設けて客足をひくのも一案ではないかと思われるのである。近ごろ写真ばかりの本のはやるのはもうこの方向への第一歩とも見られる。
 読みたい本、読まなければならない本があまり多い。みんな読むには一生がいくつあっても足りない。また、もしかみんな読んだら頭はからっぽになるであろう。頭をからっぽにする最良法は読書だからである。それで日下部《くさかべ》氏のいわゆる少なく読む、その少数の書物にどうしたらめぐり会えるか。これも親のかたきのようなもので、私の尋ねる敵《かたき》と他の人の敵とは別人であるように私の書物は私が尋ねるよりほかに道はない。
 ある天才生物学者があった。山を歩いていてすべってころんで尻《しり》もちをついた拍子に、一握りの草をつかんだと思ったら、その草はいまだかつて知られざる新種であった。そういう事がたびたびあったというのである。読書の上手《じょうず》な人にもどうもこれに類した不思議なことがありそうに思われる。のんきに書店の棚《たな》を見てあるくうちに時々気まぐれに手を延ばして引っぱりだす書物が偶然にもその人にとって最も必要な本であるというようなことになるのではないか。そういうぐあいに行けるものならさぞ都合がいいであろう。
 一冊の書物を読むにしても、ページをパラパラと繰るうちに、自分の緊要なことだけがページから飛び出して目の中へ飛び込んでくれたら、いっそう都合がいいであろう。これはあまりに虫のよすぎる注文であるが、ある度までは練習によってそれに似たことはできるもののようである。実際何十巻ものエンチクロペディーやハンドブックを通読できるわけのものではないのである。
 間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうしてただ間違っていないというだけの事以外になんの取り柄もないと思われる本もある。これほど立派な材料をこれほど豊富に寄せ集めて、そうしてよくもこれほどまでにおもしろくなくつまらなく書いたものだと思う本もある。
 翻訳書を見ていると時におもしろいことがある。訳文の意味がどうしてもわからない場合に、それを一ぺん原語に直訳して考えてみるとなるほどと合点《がてん》が行って思わず笑い出すことがあ
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