読書の今昔
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)岐阜提灯《ぎふちょうちん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)簡単|明瞭《めいりょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和七年一月、東京日日新聞)
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現代では書籍というものは見ようによっては一つの商品である。それは岐阜提灯《ぎふちょうちん》や絹ハンケチが商品であると同じような意味において商品である。その一つの証拠にはどこのデパートメント・ストアーでもちゃんと書籍部というのが設けられている。そうして大部分はよく売れそうな書物を並べてあるであろうが、中にはまたおそらくめったには売れそうもない立派な書籍も陳列されている。それはちょうど手ぬぐい浴衣《ゆかた》もあればつづれ錦《にしき》の丸帯もあると同様なわけであって、各種階級の購買者の需要を満足するようにそれぞれの生産者によって企図され製作されて出現し陳列されているに相違ない。
商品として見た書籍はいかなる種類の商品に属するか。米、味噌《みそ》、茶わん、箸《はし》、飯櫃《めしびつ》のような、われわれの生命の維持に必需な材料器具でもない。衣服や住居の成立に欠くべからざる品物ともちがう。それかといって棺桶《かんおけ》や位牌《いはい》のごとく生活の決算時の入用でもない。まずなければないでも生きて行くだけにはさしつかえはないもののうちに数えてもいいように思われる。実際今でも世界じゅうには生涯《しょうがい》一冊の書物も所有せず、一行の文章も読んだことのない人間は、かなりたくさんに棲息《せいそく》していることであろう。こういうふうに考えてみると、書物という商品は、岐阜提灯や絹ハンケチや香水や白粉《おしろい》のようなものと同じ部類に属する商品であるように思われて来るのである。
毎朝起きて顔を洗ってから新聞を見る。まず第一ページにおいてわれわれの目に大きく写るものが何であるかと思うと、それは新刊書籍、雑誌の広告である。世界じゅうの大きな出来事、日本国内の重要な現象、そういうもののニュースを見るよりも前にまずこの商品の広告が自然にわれわれの眼前に現われて来るのである。
自分の知る範囲での外国の新聞で、こういう第一ページをもったものは思い出すことができない。日本にオリジナルな
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